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2007年06月

旧暦では夏の終わりの6月、七夕が秋の季語である由縁です。

2007年06月12日 火曜日

いまは東京湾の埋め立てが進んでいて、江戸時代の海岸線を知ることが難しくなっていますが、田町から大森辺りにかけての江戸時代の海岸線は旧東海道を歩けば判るといいます。かつての東海道が海岸に沿っていたためで、現在の第一京浜(国道15号)のルートがほぼ海岸線だったと考えていい様です。第一京浜は日本橋から旧東海道のルートを踏襲していて、北品川から旧東海道の西を平行する様に進み、鈴ヶ森の辺りで合流します。先日紹介した鮫洲の土佐山にある山内容堂の墓は第一京浜の西側にありますが、この辺りでは京急本線を挟んで東側を旧東海道が走っています。藩邸は高台にあたるので、やはり海が望める絶好の場所だったのだろうと想像がつきます。ちなみにいまの職場は容堂が愛したであろう海の底です・・・。

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2007年06月11日 月曜日

日本を代表するビールメーカーのひとつ、キリン。そのシンボルマークである麒麟のデザインされたビールが発売されたのが明治21年(1888年)のこと。製造元は、ザ・ジャパン・ブルワリー・カンパニーでした。ザ・ジャパン・ブルワリー・カンパニーは、その前身であるスプリング・バレー・ブルワリーの経営破綻を受け、これを買収して設立された会社でしたが、この会社の買収に奔走したのがトーマス・グラバーだったといいます。グラバーは自ら重役として会社の経営に携わり、その呼び掛けに応じた岩崎弥之助、渋沢栄一、後藤象二郎らが株主として名を連ねました。明治18年(1885年)、のちに麒麟麦酒株式会社となるザ・ジャパン・ブルワリー・カンパニーが設立されてから122年。普段なにげなく飲んでるビールから、グラバー、後藤象二郎らに辿り着いたのには、ちょっと不思議な感じがします。

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2007年06月02日 土曜日

14代将軍の徳川家茂は相当歯が悪かったと云われています。31本中30本が虫歯だったとか。家茂が甘党だったということもある様ですが、当時の歯科技術というのはどの程度のものだったのか、興味があります。松本良順の養家である奥御医師松本家は代々口科と呼ばれる現在の歯科が家業だったといいます。伊東玄朴が切り開くまで奥御医師では唯一桂川家だけが蘭方を許されていたということなので、松本家の口科というのは漢方だったのでしょうか。漢方の歯科というのは現代では想像し難いですが、家茂の歯の状態を見ても現代の歯科とは違い、痛みを和らげたり、悪い歯を抜いたり、という感じの治療が主流だったのではないかと勝手に想像しています。13歳で将軍になり、21歳で亡くなった家茂。外交問題、国内情勢だけでなく、虫歯に悩まされる日もあったかも知れません。

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2007年06月01日 金曜日

天保13年(1842年)のこの日は新選組1番隊組長沖田総司の誕生日。今年は生誕165周年にあたる様です。沖田総司についてはあまりにも有名になり過ぎたという感がありますし、改めて書くまでもないですね。

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