内堀公園内にある横井小楠と三岡八郎の銅像。安政5年(1858年)、横井小楠に同道して九州に旅立った三岡八郎は、長崎でオランダ商館と福井藩との間に生糸の販売特約を結ぶなど藩財政改善に尽力した。
昭和18年(1943年)に松平春嶽を祭神として建立された別格官弊社。境内には松平春嶽の銅像の他、鈴木主税、中根雪江、橋本左内を祭神とする攝社恒道神社がある。
福井藩松平氏17代の居城。初代藩主結城秀康は徳川家康の次男で、福井城は慶長6年(1601年)に入国した結城秀康によって築城された。縄張りは徳川家康自らが行ったともいわれ、初め北ノ庄城といったが、「北」が敗北を意味することから後に福井城と改名された。天守閣は寛文9年(1669年)に焼失し、以後再建されなかったとのこと。現在、本丸跡には福井県庁が置かれている。
福井城跡 | 天守閣跡 |
中央公園に建つ由利公正像。由利公正(三岡八郎)は福井藩士で、維新後三岡家の旧姓である由利と改め、公正と称した。
結城(松平)秀康、徳川家康、松平慶永(春嶽)を祭神とする神社。明治24年(1891年)、16代藩主松平春嶽が初めて合祀された神社でもある。境内には中根雪江翁顕彰碑が建つ。中根雪江は福井藩士で、松平春嶽の側用人として藩政を補佐した。碑は勝海舟の撰文、松平春嶽の揮毫による。
由利公正(三岡八郎)の旧宅跡。由利公正は来福した横井小楠に師事し、殖産興業政策を実施して藩財政の建て直しを行った。維新後、新政府下で参与となり、五箇条の御誓文の草案を起草。初代東京都知事、元老院議員、貴族院議員を歴任した。
旧日蓮宗善慶寺境内で、都市計画により同公園となった。善慶寺が橋本家の菩提寺であったことから、橋本左内と両親の墓がある。橋本左内は藩校明道館学監を経て、松平春嶽の近侍となり、国事に奔走するが、安政の大獄のために刑死した。遺体は小塚原の回向院に埋葬されたが、文久3年(1863年)に善慶寺に改葬されたとのこと。
明治2年(1869年)、明新館と改められた旧藩校明道館に招かれた外国人教師グリフィスのために建てられた福井市内最初の洋館跡。明治4年(1871年)に建てられたが、明治6年(1873年)火災により焼失した。近くには同じ外国人教師ルシーのために建てられた洋館もあった。
横井小楠が文久3年(1863年)に来福した際の寄留宅跡。横井小楠は由利公正らに講義を行ったことが端緒となり、後に松平春嶽の政治顧問となって藩政指導を行った。横井小楠は生涯のうち、4度来福している。
文久2年(1862年)、足羽川に架けられた橋。幸橋架設には三岡八郎(由利公正)が尽力したという。
慶応3年(1867年)11月2日、来福した坂本龍馬と三岡八郎はここ莨屋(たばこや)旅館において会談した。藩政改革での手腕を評価した坂本龍馬が新政府への参画を求めたもので、坂本龍馬の推薦により三岡八郎は維新後、新政府参与となり御用金穀取扱方に任命された。
福井藩士橋本左内の生家跡。橋本左内は天保5年(1834年)3月11日、奥外科医橋本長綱の長男としてこの地に生まれ、名を綱紀、通称を左内といい、景岳と号した。15歳で「啓発録」を著した左内は、大阪の適塾に入門すると師緒方洪庵をして「池中の蛟龍」と言わしめたという。
福井藩士鈴木主税の旧宅跡。鈴木主税は水戸藩の藤田東湖が西郷隆盛と共に「当今の豪傑」と評した人物で、中根雪江と共に松平春嶽を補佐した。世直神社の祭神として生前から奉られたといい、寺社奉行、町奉行時代の善政と共に人柄が偲ばれる。
福井藩士中根雪江の旧宅跡。雪江は名を師質、通称靱負といい、雪江と号した。松平春嶽の側用人として福井藩の内政を支え、維新後は参与となって内国事務掛に任命されるが、政府を批判したという嫌疑を受け、僅か5ヶ月余りで政界を退いた。幕末の多忙な日々の中で「昨夢紀事」、「戊辰日記」などを残した功績は大きい。