白河街道の滝沢口に建つ旧滝沢本陣は文禄4年(1596年)に建てられ、延宝年間(1673年から1681年)に会津藩より本陣の指定を受けたもので、藩主の領内視察や参勤交代の際の休息所として使用された。会津戦争の際には会津藩の本陣となって藩主松平容保自らが入り、明治元年(1868年)8月22日には前線からの救援の求めに応じ、警護していた白虎隊士中二番隊に出陣の命を下した。室内には会津戦争時に受けた刀疵や弾痕が無数に残っている。
慶永元年(1394年)日仁上人の開山となる日蓮宗のお寺。明治元年(1868年)9月22日に鶴ヶ城を開城した松平容保・喜徳父子は、江戸に送還されるまでの約1ヶ月の間、この妙国寺に入り、謹慎して過ごした。また、飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体が野晒しになっていることを憂いた吉田伊惣冶が西軍の眼を盗み、仮埋葬した寺としても知られる。
戸ノ口堰は元和9年(1623年)、猪苗代湖から現在の河沼郡河東町八田野の辺りに水を引き入れるために工事を開始したのが始まりといわれ、その後200余年の間に幾度かの工事を経て、会津若松に引き入れられた。戸ノ口堰洞穴は天保6年(1835年)、藩主松平容敬の命により戸ノ口堰の大改修が行われた際に採掘されたもので、白虎隊士中二番隊はこの戸ノ口堰洞穴を通り、戸ノ口原から飯盛山に向かった。
戸ノ口堰洞穴 | 顕彰碑 |
市杵島姫命を祭神とし、永徳年間(1381年から1383年)の創建となる神社。初め宗像神社といったが、明治元年(1868年)の神仏分離令に際し、厳島神社と改名され現在に至る。飯盛山の別名である辯天山はこの厳島神社に由来する。
寛文年間(1661年から1672年)に創建され、会津3代藩主松平正容により宇賀神像が奉祀された御堂。明治23年(1890年)、白虎隊士の墓の改修に際し、自刃した白虎隊士19名の霊像が奉納、安置された。
白虎隊士中二番隊で唯一蘇生した飯沼貞吉の墓。飯沼貞吉は生き残ったことを生涯潔しとせず、飯沼貞雄と改名して会津には足を運ばなかったといわれるが、その遺言により昭和32年(1957年)、死後26年を経て遺髪と遺骨の一部が白虎隊の墓所に近い飯盛山の一画に埋葬された。
飯沼貞雄の墓 | 顕彰碑 |
館長鈴木滋雄氏が幕末の会津藩を中心に個人で収集した約5000点に及ぶ豊富な資料を収蔵展示している資料館。江戸時代に会津藩において実際に使用されていた日用品の展示なども行っており、白虎隊や会津戦争に限らず、広範にわたって会津を知ることが出来る。
家老萱野権兵衛の屋敷跡。戦後戦争責任を問われた会津藩は首謀者3名の差し出しを求められたが、田中土佐、神保内蔵助が既に自刃しており、西郷頼母が行方不明であったため、次席の萱野権兵衛が責任を負って切腹した。一刀流溝口派の達人でもあった彼の最期は平素と変わらずに穏やかであったという。屋敷跡は現在埋蔵文化物管理センターとなっている。
家老西郷頼母の屋敷跡。西郷家は藩祖保科正之の一族にあたるが、憚って西郷姓を名乗ったといわれる。会津戦争に際しては恭順を唱えるが容れられず、西軍に抗することとなった。明治元年(1868年)8月23日、西軍が城下に殺到する中、藩の足手まといになることを憂慮した西郷頼母の夫人とその家族20名は、この屋敷において自刃する道を選択した。
西郷邸址碑 | 慰霊碑 |
嘉永5年(1852年)、東北旅行中の吉田松陰と宮部鼎蔵が会津城下滞在中に宿泊した旅館跡。明治元年(1868年)には宇都宮から会津入りした土方歳三が滞在し、傷の治療を行ったといわれる。3階建ての建物は昭和初年に取り壊され、現在は大東銀行会津支店となっている。
京都に総本社のある愛宕神社。境内には松平容保の胸像があるが、傷みが激しい。
愛宕神社 | 松平容保公之像 |
甲賀町口門は蒲生氏郷が鶴ヶ城下に設けた16箇所の郭門のひとつで、門の内側には武士、門の外側には町人の屋敷が配された。会津戦争では明治元年(1868年)8月23日、城下に迫る西軍との間で激戦が繰り広げられた場所として知られ、防ぎきれないと判断した家老田中土佐、神保内蔵助は藩医土屋一庵の屋敷において自刃した。
柴四朗・五郎兄弟の生家跡。嘉永5年(1852年)に生まれた兄四朗は、日新館に学び、白虎隊士として会津戦争に従軍。後に海外留学を経て小説家、政治家として活躍。万延元年(1860年)に生まれた弟五郎は、斗南藩で苦しい少年期を過ごし、後に士官学校を経て陸軍大将となる。五郎の残した「野辺地日記」「ある明治人の記録」は斗南藩時代の会津を記した著作として知られる。生家跡は現在つばくろ児童公園となっている。
会津藩家老山川尚江屋敷跡。斗南藩大参事山川浩(大蔵)、東京帝大総長山川健次郎、日本初の女性留学生大山捨松兄妹生誕の地として知られる。屋敷は現在の会津酒造博物館から会津酒造組合にかけての辺りにあったと云われ、近隣には田中土佐、萱野権兵衛、西郷頼母の屋敷が軒を連ねた。なお、「大山捨松生誕の地」は現地案内板に従った。
会津藩士日向新介の娘で、初代若松町長となった会津藩家老海老名季昌の妻リンが創立した幼稚園。維新後、海老名季昌に従って上京した彼女は、女性の地位向上を目指す社会運動を通じ、女性教育の必要性を実感。会津に戻ると若松幼稚園(現在の若松第一幼稚園)、ついで若松女学校(現在の会津女子高校)を設立し、教育者として地域教育に貢献した。
白虎隊寄合二番隊長として隊士62名を率いた一ノ瀬加寿馬の屋敷跡。白虎隊寄合二番隊は寄合一番隊と共に越後口方面に出陣し、後に鶴ヶ城に入って奮戦した。現在は会津酒造歴史館となっている。
かつての芦名氏の菩提寺で、応永28年(1421年)芦名盛信の建立、傑堂禅師(楠正成の三男正儀の子)の開山となる曹洞宗のお寺。会津における新選組の宿所となった天寧寺に土方歳三が土地を拝領し、近藤勇の墓を建立したといわれ、戒名は松平容保の要請により、鶴ヶ城において天寧寺住職より授与されたといわれる。広大な墓域には会津戦争の全責任を担って自刃した萱野権兵衛やその次男郡長正の墓があり、近年会津士魂碑が建立された。
会津藩第2代藩主正経から第9代藩主容保まで保科松平家歴代の墓が並ぶ松平家の廟所。容保の嫡男で斗南藩主となった容大の墓もある。
松平容保の墓 | 松平容大の墓 |
永仁2年(1294年)、建御名方命と誉田別命を祭神とし、葦名盛宗の建立となる神社。葦名盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、戦わずに勝利したことから信州より御神体を迎えて城下に奉ったのが始まりという。会津戦争の際には佐川官兵衛率いる砲兵隊第一分隊、第三分隊が境内に布陣。郭内に撤退する味方を援護し、追撃する土佐藩兵を撃退した。鳥居には激戦を物語る弾痕が生々しく残されている。
山鹿流兵法の祖である山鹿素行は、元和8年(1622年)8月16日、この地に誕生した。林羅山に朱子学、小幡勘兵衛に甲州流軍学を学び、後に「聖教要録」を著して幕府官学である朱子学を批判すると、会津初代藩主で幕府執権保科正之により赤穂藩に配流となった。山鹿流兵法はその後、江戸時代を通じて連綿と受け継がれ、幕末には吉田松陰、宮部鼎蔵ら多くの志士達をその門から輩出した。
山鹿素行誕生地碑 | 山鹿素行誕生碑 |
寛政11年(1799年)、会津藩第5代藩主容頌が家老田中玄宰の建言により城下に建設した藩校日新館跡。藩士の子弟は10歳で就学が義務づけられ、文武両道の修得に励んだ。七千坪におよぶ敷地には水泳や馬術の訓練に用いたプール、天文台などが配置され、就学範囲も医学など多岐に渡った。写真は左が日新館跡碑、右が須田新九郎頌徳碑。須田新九郎は藩の御用商人で日新館建設にあたり、多額の寄付を行った人物。
天文台は藩校日新館付属の施設で通年で星の観測を行う傍ら、暦の編纂などを行った。天文台を持つ藩校は全国で会津日新館の他、薩摩造士館、水戸弘道館の2校のみといわれ、天下の三館と称された。明治元年(1868年)の会津戦争に際し戦火にみまわれた日新館において、唯一現存する施設の一部となっている。