城東北公民館に隣接する敷地内の一画にある猿田忠夫主従の墓。猿田忠夫は、元治元年(1864年)5月、天狗党の軍資金調達のため、藤田芳之助らと共に上州周辺を襲ったとされる。墓碑には、猿田忠夫の他、郡司兵左衛門、上野群馬之助、岡野仙三郎、濱吉、菊松の5名の名が刻まれている。
征夷大将軍坂上田村麻呂が大同3年(808年)、京都清水寺から勧請し、開基したとされる千手観音を本尊とする真言宗のお寺。あじさい寺としても知られる。観音堂右手にある田村堂には、下仁田戦争で亡くなった高崎藩士36名の木像が安置されている。
小栗上野介が隠棲地として邸を建てる予定だったところ。しかし、小栗上野介は邸の完成を見ることもないまま、明治元年閏4月5日、東山道軍により捕縛、十分な取り調べもないまま、翌6日斬首された。邸跡には礎石が残る他、水路が残されており、現在でも利用されているとのこと。
小栗上野介は免職後、権田村(現高崎市)に隠棲したが、多額の軍用金を持ち帰ったと噂が流れ、暴徒に襲撃された。この暴徒を鎮圧した小栗だったが、逆に強力な兵を持っていると東山道総督府に目を付けられることとなり、捕縛されると弁明も受け入れられず、ここ水沼川原にて斬首された。
小栗上野介終焉の地 | 小栗上野介顕彰碑 |