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山際公園 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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山際稲荷神社があり、桜の名所として知られる。敷地内には、明治33年(1900年)に旧水戸藩士の呼びかけで建立された義烈千秋の碑および平成4年(1992年)水戸回天神社創建20周年記念事業として建立された維新之礎碑が建つ。

義烈千秋の碑

維新之礎碑
本誓寺 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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元治元年(1864年)11月16日、水戸天狗党と高崎藩士が下仁田で戦火を交えた。本誓寺は、その下仁田戦争で亡くなった高崎藩士36名が仮埋葬された浄土宗のお寺。墓地には、同じ下仁田戦争の天狗党側戦死者4名のうち、激戦地のひとつ、安導寺合戦で亡くなった斎藤仲次、久保田藤吉の墓がある。

本誓寺

斎藤仲次・久保田藤吉の墓
伊勢山 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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伊勢山
武田耕雲斎の次男で四番隊長の武田魁介率いる一隊は、伊勢山の尾根沿いに熊野山突端まで移動し、初め小幡藩の旗を掲げて高崎藩を油断させ、崖上から高崎藩本陣に銃撃を加え、これを壊走させた。
大曾根繁蔵の墓 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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下仁田戦争で亡くなった天狗党4名のうちのひとり、大曾根繁蔵の墓。大曾根繁蔵は高崎藩の出入口となった梅沢峠を見張る役目を担っていたが、下小坂関口付近で高崎藩士と遭遇し、戦死した。傍らには、水戸尊攘志士の鎮魂と当地の厚志を謝し、水戸の梅樹が献木されている。

大曾根繁蔵の墓

水戸の梅樹
下仁田町ふるさとセンター 群馬県甘楽郡下仁田町下小坂
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下仁田町ふるさとセンター
題下仁田古戦場碑
下仁田町の歴史民俗資料館。下仁田戦争の他、郷土出身の文化人に関する資料展示がされている。ちょうど、下仁田町ふるさとセンターの辺りが熊野山の一部にあたり、武田魁介の一隊は、この辺りから高崎藩本陣に銃撃を行ったとされる。
高崎藩士戦死之碑 群馬県甘楽郡下仁田町下小坂
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高崎藩士戦死之碑
明治26年(1893年)、下仁田戦争30周年を記念し、旧高崎藩士が中心となって激戦地のひとつである岩下合戦の地に建立した追悼碑。碑文は勝海舟の筆によるもの。碑の裏手、熊野山から高崎藩本陣への天狗党の銃撃が決め手となり、高崎藩側は壊走することとなった。
高崎藩本陣跡 群馬県甘楽郡下仁田町下小坂
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高崎藩は、下小坂の名主であった里見治兵衛宅前に本陣を敷いた。地形に詳しい七日市藩、小幡藩に先陣を頼んだが断られ、高崎藩は単独で天狗党を迎え討つことになる。

里見治兵衛宅跡

弾痕の残る土蔵
天狗党本陣跡 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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桜井弥五兵衛宅跡
天狗党が本陣とした下仁田の名主桜井弥五兵衛宅跡。桜井弥五兵衛宅を本陣とするにあたっては、先代の妻桜井はまが、武田耕雲斎を相手に天狗党の行動を激しい剣幕で諫めたと云われ、語り継がれている。
野村丑之助の墓 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田
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下仁田戦争で亡くなった天狗党4名のうちのひとり、野村丑之助の墓。野村丑之助は、田丸稲之衛門の小姓として従軍していたが、乱戦で一刀流の使い手、高崎藩先陣内藤儀八と斬り合いとなり、右手を切り落とされる重傷を負った。彼は足手まといになることを憂い、左手のみで切腹。享年13歳。懐には辞世『なきがらは程なく土にかわるとも 魂はのこりて皇国を守る』がしたためてあったという。

野村丑之助の墓

義烈照千古の碑
鏑川 群馬県甘楽郡下仁田町
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牧口橋から下流を見下ろす
西牧川と南牧川は下仁田で合流し、鏑川となる。下仁田戦争で捕虜となった高崎藩士は、鏑川北岸(写真左)の河原において処刑された。(高崎藩士7名切腹、人足3名斬首)