明治2年(1869年)4月下旬、五稜郭の背後を防衛する目的で旧幕府軍によって築かれた四方形の堡塁。大鳥圭介が設計したといわれる。東照宮(現神山稲荷神社)に築かれた権現台場と共に要塞と化したが、急造であった上に規模も小さく、明治2年(1869年)5月11日の岡山、徳山両藩の攻撃により数時間で陥落した。近年、土塁の一部が階段状に踏み固められるなど、荒廃が進んでおり、保存状態の悪化が懸念される。
四稜郭案内図 | 四稜郭 |
現在陣川町にある北海道東照宮があった場所で、箱館戦争に際し、四稜郭と五稜郭とを結ぶ重要な拠点として土塁が築かれ、権現台場として利用された。明治2年(1869年)5月11日の戦火により、旧東照宮の社殿は焼失。権現台場が長州藩兵に占拠されたことにより、退路を断たれることを恐れた四稜郭の旧幕府軍は五稜郭へ向けて敗走した。参道の大鳥居は弁天台場基礎工事責任者で北海道東照宮に移設された狛犬の作者でもある井上喜三郎の手によるもの。現在は神山稲荷神社となっており、境内に権現台場当時の土塁が残る。
蘭学者武田斐三郎の設計による洋式城郭で、日米和親条約により開港された箱館防備のため、安政4年(1857年)から7年掛りで築城された。明治元年(1868年)10月、開陽丸を主力とする8隻の軍艦から鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、箱館を攻略すると五稜郭を拠点とし、仮政権を樹立。しかし、開陽丸を失うなど、徐々に各方面で苦戦を強いられる様になり、明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の総攻撃を受け、18日に降伏した。
土方歳三と新撰組隊士の供養碑
正保元年(1645年)、現在の亀田八幡宮付近に建立された函館市内で高龍寺の次に古いといわれる浄土宗のお寺。幕末の頃には弥生小学校付近にあったが、明治12年(1879年)の大火で現在の地に移転した。箱館開港に伴い、安政6年(1859年)から元治元年(1864年)までイギリスの領事館が置かれ、箱館戦争に際しては新選組が屯所として利用したという。境内に「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建つ。碑面には、土方歳三の他、かつて称名寺に墓があったという野村義時(利三郎)、栗原仙之助、糟屋十郎、小林幸次郎の4名の名が刻まれている。