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北海道東照宮 北海道函館市陣川町
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文化11年(1814年)、様似町の等じゅ院(「じゅ」はさんずいに樹の旁)に祀られたのを始まりとする神社。元治元年(1864年)、五稜郭築城に際し、箱館奉行の小出大和守秀実の請願により、鬼門にあたる上山村に蝦夷地守護の大社として奉遷された。箱館戦争が起こると四稜郭と共に土塁が築かれ、権現台場として利用されたが、明治2年(1869年)5月11日の戦火によって社殿を焼失。移転を繰り返した後、昭和24年(1949年)に県社として現在地に社殿が建立され、平成4年(1992年)北海道東照宮と改められた。境内には権現台場より運ばれた狛犬、弾痕の残る手水石がある。箱館戦争の戦利品として持ち去られていた「東照宮」の扁額が平成9年(1997年)に返却され、文化財として保存(非公開)されている。

北海道東照宮

弾痕の残る手水石

権現台場当時の狛犬

参道鳥居の扁額
四稜郭 北海道函館市陣川町
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明治2年(1869年)4月下旬、五稜郭の背後を防衛する目的で旧幕府軍によって築かれた四方形の堡塁。大鳥圭介が設計したといわれる。東照宮(現神山稲荷神社)に築かれた権現台場と共に要塞と化したが、急造であった上に規模も小さく、明治2年(1869年)5月11日の岡山、徳山両藩の攻撃により数時間で陥落した。近年、土塁の一部が階段状に踏み固められるなど、荒廃が進んでおり、保存状態の悪化が懸念される。

四稜郭案内図

四稜郭

四稜郭碑

四稜郭土塁

階段状に荒れる土塁
権現台場跡 北海道函館市神山3丁目
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現在陣川町にある北海道東照宮があった場所で、箱館戦争に際し、四稜郭と五稜郭とを結ぶ重要な拠点として土塁が築かれ、権現台場として利用された。明治2年(1869年)5月11日の戦火により、旧東照宮の社殿は焼失。権現台場が長州藩兵に占拠されたことにより、退路を断たれることを恐れた四稜郭の旧幕府軍は五稜郭へ向けて敗走した。参道の大鳥居は弁天台場基礎工事責任者で北海道東照宮に移設された狛犬の作者でもある井上喜三郎の手によるもの。現在は神山稲荷神社となっており、境内に権現台場当時の土塁が残る。

神山稲荷神社参道

神山稲荷神社

本殿裏手に残る土塁
五稜郭 北海道函館市五稜郭町
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蘭学者武田斐三郎の設計による洋式城郭で、日米和親条約により開港された箱館防備のため、安政4年(1857年)から7年掛りで築城された。明治元年(1868年)10月、開陽丸を主力とする8隻の軍艦から鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は、箱館を攻略すると五稜郭を拠点とし、仮政権を樹立。しかし、開陽丸を失うなど、徐々に各方面で苦戦を強いられる様になり、明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の総攻撃を受け、18日に降伏した。

五稜郭跡碑

五稜郭

武田斐三郎先生顕彰碑
五稜郭タワー 北海道函館市五稜郭町
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五稜郭に隣接する展望施設。平成18年(2006年)、新五稜郭タワーが開業し、旧五稜郭タワーは惜しまれつつ解体された。展望2階に小寺眞知子作「土方歳三之像」、1階アトリウムに小寺眞知子作「五稜郭に立つ 土方歳三」像がある他、土方歳三の胸像で小寺眞知子作「土方歳三之像」(非公開)がある。小寺眞知子氏は函館出身の彫刻家。アトリウム脇には箱館戦争供養塔が建つ。

五稜郭タワーから望む函館山

五稜郭タワーから望む五稜郭

「土方歳三之像」

「五稜郭に立つ 土方歳三」像

箱館戦争供養塔
土方歳三最期の地碑 北海道函館市若松町
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新選組副長土方歳三終焉の地。明治2年(1869年)5月11日、弁天台場に孤立した仲間を救出に向かう途中、一本木関門を出たところで腹部に銃弾を浴び、戦死したといわれる。終焉の地には諸説あり、異国橋や鶴岡町とする説もある。

五稜郭の形をした道標

土方歳三最期の地

土方歳三最期の地碑
称名寺 北海道函館市船見町
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土方歳三と新撰組隊士の供養碑
正保元年(1645年)、現在の亀田八幡宮付近に建立された函館市内で高龍寺の次に古いといわれる浄土宗のお寺。幕末の頃には弥生小学校付近にあったが、明治12年(1879年)の大火で現在の地に移転した。箱館開港に伴い、安政6年(1859年)から元治元年(1864年)までイギリスの領事館が置かれ、箱館戦争に際しては新選組が屯所として利用したという。境内に「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建つ。碑面には、土方歳三の他、かつて称名寺に墓があったという野村義時(利三郎)、栗原仙之助、糟屋十郎、小林幸次郎の4名の名が刻まれている。