明治2年(1869年)4月13日に開戦し、29日に撤退するまで、土方歳三率いる旧幕府軍約300名が守り抜いた場所。13日の第1次二股口の戦いでは降り出した雨の中、戦闘は16時間に及び、旧幕府軍だけで約3万5千発を消費。新政府軍を稲倉石まで撤退させた。水桶を用意し、熱した銃身を冷やしながらの戦闘だったという。「史跡 箱館戦争 土方歳三 二股口激戦之地」の標柱が建つ。標柱は下二股橋の台場山側の袂。風化が激しく文字を判別するのが難しい。
二股口激戦之地標柱 | 標柱より下二股橋を望む |
二股口古戦場入口
乙部、江差方面からの新政府軍約600名と土方歳三率いる伝習隊、衝鉾隊約300名が激戦を繰り広げた古戦場。第1次二股口の戦いは明治2年(1869年)4月13日から14日に行われ、新政府軍側が稲倉石へ撤退。第2次二股口の戦いは23日から24日に行われ、伝習隊滝川充太郎らの活躍もあり、新政府軍側が敗走。新政府軍側は長州藩軍監駒井政五郎らの戦死者を出した。しかし、29日に矢不来の旧幕府軍が敗走すると退路を断たれる恐れが生じ、撤退を余儀なくされた。
明治元年(1868年)10月24日、大鳥圭介率いる伝習隊と新政府軍が遭遇戦になり、意冨比神社の境内を中心に激しい攻防が行われた。戦闘は約1時間で新政府軍側が敗走。新政府軍は重要な防衛拠点である松前藩戸切地陣屋に火をかけ退却した。境内のイチイの木には弾痕が残る。
弾痕の残るイチイの木 | 意冨比神社 |
永井蠖伸斎・網代清四郎の墓
函館の高龍寺を本寺とし、明和4年(1767年)光明庵として建立されたのを起源とする曹洞宗のお寺。箱館戦争戦死者の墓(備後福山藩、越前大野藩、松前藩)の他、旧幕府軍戦死者(永井蠖伸斎、網代清四郎)の墓がある。永井蠖伸斎は衝鉾隊幹部として各地を転戦したが、明治2年(1869年)4月29日矢不来の戦いで死亡。網代清四郎は仙台額兵隊の指図役であったが、永井蠖伸斎と同じ4月29日有川にておいて戦死した。