後に弘道館初代教授頭取となる会沢正志斎が、郡奉行となった天保元年(1830年)までの9年間を過ごした寓居跡。文政7年(1824年)5月、大津浜にイギリス人が上陸した事件で筆談役を務めた会沢正志斎は、その危機感から幕末の志士の間に思想的な影響を与えることになる「新論」を執筆。翌文政8年(1825年)この地で完成させた。
弘化元年(1844年)に失脚した徳川斉昭の雪冤運動のため奔走した会沢正志斎が、弘化3年(1846年)蟄居の命を受けてから嘉永2年(1849年)11月に赦免されるまでの4年間、同志らと幽閉された今井金衛門の屋敷跡。
会沢正志斎幽居跡遠景 | 会沢正志斎幽居跡 |
徳川斉昭が設立した水戸藩の藩校で、藤田東湖、会沢正志斎を擁し、水戸学の総本山となった。桜田烈士である関鉄之介らも、かつては弘道館で学んだ俊才である。大政奉還後、徳川慶喜が水戸で謹慎した至善堂の他、尊攘と大書された掛け軸などがあり、往時が偲ばれる。
弘道館の向かい側に建つ徳川斉昭の銅像。徳川斉昭は水戸藩第9代藩主で、藩政改革に努める傍ら、国難を憂い、海岸線防備の重要性を説いた。しかし、開国をやむなしとする幕府は次第に斉昭の存在をうとましく思う様になり、ことに井伊直弼との対立は決定的となる。安政の大獄により、斉昭は永蟄居を命ぜられ、これが水戸浪士による桜田門外の変へと発展した。諡は烈公。
弘道館前に建てられた徳川慶喜向学の地碑。江戸の水戸藩邸で生まれた七郎麿(後の徳川慶喜)は、江戸の風俗に染まらせないという斉昭の教育方針により一橋家を相続するまでの約10年間を水戸の地で過ごした。殊に弘道館には5歳の頃より通い、学問武芸に勤しんだという。
茨城県小川町に生まれた医師本間玄調は、杉田玄白や華岡青州、シーボルトに師事した後、水戸藩医となり、徳川斉昭に招かれ医学館教授を勤めた。特に水戸で初めてとなる種痘の実施や全身麻酔による手術を成功させるなど、水戸内外を問わず、医学史に大きな功績を残した。
茨城百景碑
慶長14年(1609年)佐竹氏の後に入った徳川頼房が水戸徳川家初代藩主として拡張した水戸城は、連郭式と呼ばれるもので那珂川と千波湖という天然の要害を利用した巨大なものであったという。天守閣、石垣を持たず、戦火で御三階櫓を焼失し、現在は薬医門が残るのみとのこと。写真は二の丸門跡の土塁の前に建つ茨城百景弘道館水戸城址碑。
嘉永4年(1851年)12月から翌嘉永5年1月にかけての約1ヶ月間、東北遊途中の吉田松陰が滞在した永井政介宅跡。吉田松陰は滞在中足繁く会沢正志斎や豊田天功を訪ね、水戸学の精神を吸収したという。碑の正面には「四海皆兄弟」で始まる吉田松陰直筆の詩文が刻まれている。
会沢正志斎像
水戸藩の儒学者、会沢正志斎の屋敷跡。藤田幽谷の私塾青藍舎に学び、後に『新論』を著して藤田東湖と共に水戸学の中心的な人物となった会沢正志斎のもとには、全国から真木和泉、吉田松陰などが訪れたという。屋敷跡は現在住友生命水戸ビルとなっており、会沢正志斎の銅像が建つ。
儒学者藤田幽谷が水戸藩から与えられた屋敷地跡と伝えられ、敷地内には私塾青藍舎があったという。文化3年(1806年)3月16日、藤田東湖はこの屋敷で藤田幽谷の子として生まれた。敷地内には産湯の井戸跡も残され、昭和になって水戸市に寄贈されるまで藤田家の所有であったが、現在はみと好文カレッジとなっている。
藤田東湖生誕の地と道路を挟んだ向かい側にある駐車場の崖下付近が旧奈良屋町にあたり、藤田幽谷生誕の地であると云われる。藤田幽谷は奈良屋町で古着商を営む藤田屋の子として生まれ、10歳で立原翠軒に入門。徐々に頭角を現すが、大日本史編纂に対する意見の違いから翠軒と対立し、決別への道を歩むこととなった。
会沢正志斎の墓
日蓮宗のお寺。彰考館総裁などを歴任した会沢正志斎の墓がある。会沢正志斎は『新論』の中で尊王攘夷思想を説き、『弘道館記述義』を著した藤田東湖と共に水戸学の中心的な人物となったが、文久2年に開国論を説いた『時務策』を著して評判を落とすと、翌文久3年他界した。
千波湖畔に建てられた徳川斉昭と七郎麻呂(後の徳川慶喜)の銅像。水戸藩第9代藩主徳川斉昭の七男として生まれた七郎麻呂(麿)は、水戸徳川家より御三卿一橋家の養子となり、第14代将軍徳川家茂の将軍後見職、禁裏御守衛総督を歴任。家茂の死後、第15代将軍として、徳川幕府最期の舵取りを行った。
大日本史の編纂にあたった2代藩主光圀(義公)と9代藩主斉昭(烈公)を2柱の祭神とする神社。境内には両公の遺品などを展示する義烈館や斉昭が鋳造した太極砲などがある。
常盤神社 | 太極砲 |
常盤神社に隣接する東湖神社は、その名が示す通り、藤田東湖を祭神とする神社。彼の著した『弘道館記述義』は、会沢正志斎の『新論』と共に志士達の間で愛読され、彼の名声を高めた。徳川斉昭の側近として、幕府海防掛に任じられるなど、政治的な手腕を発揮するが、安政大地震にて圧死。彼の死が斉昭と水戸藩全体に与えた影響は大きかった。
慶長15年(1610年)、関東郡代伊奈備前守忠次によって整備された備前堀に掛かる橋。かつての水戸街道入口にあり、人々が別れを惜しむ場所であることから水戸藩2代藩主徳川光圀が命名したと云われる。元治元年(1864年)8月、水戸城入りを目指す松平頼徳勢と市川三左衛門率いる門閥派の軍勢はこの橋を挟んで対峙した。
栗田寛は大日本史の編纂に従事した歴史学者。明暦3年(1657年)に徳川光圀よって始められた大日本史の編纂事業は、代々水戸藩主の監督の下、大日本史の編纂所である彰考館において続けられ、幕末に至り豊田天功から栗田寛に引き継がれて明治39年(1906年)に完成した。
回天神社は国事に殉じた士民の霊を奉る神社で、明治維新百年を記念して建てられた。境内にある回天館は、天狗党の志士達が収容された16棟のニシン蔵のうちの1つで、敦賀から移築されたもの。彼らはこのニシン蔵に押し込められ、過酷な日々を過ごした。彼らの西上の目的は慶喜への嘆願にあったが、容れられることはなく、350名以上が斬首されるという幕末最大の悲劇となって帰結した。
ニシン蔵 | 記念碑 |
顕宗天皇の御代(485年〜487年)頃の創建といわれ、常陸三の宮に数えられる日本武尊を祭神とする神社。元治元年(1864年)8月、水戸城入りを目指す松平頼徳が薬王院に入ると、武田彦衛門らは備前堀を挟んで対峙する門閥派を警戒し、吉田神社のある朝日山周辺に陣を布いた。
山国兵部の墓
天正9年(1581年)創建となる時宗のお寺。山国兵部の墓がある。山国兵部は田丸稲之衛門の実兄で海防掛、槍奉行目付等を勤めた。筑波山で挙兵した天狗党の説得に大平山に向かうが叶わず、後に藩主慶篤の名代松平頼徳の軍勢に参加。武田耕雲斎らと共に天狗党勢と合流して西上するが、敦賀において処刑された。
桓武天皇の勅願により、吉田神社の神宮寺として大同2年(807年)最澄が創建したとされる天台宗の古刹。元治元年(1864年)8月、水戸藩主徳川慶篤の名代として水戸城入りを目指す支藩宍戸藩主松平頼徳は薬王院を休息所とし、水戸城入りを拒む門閥派の使者と会談を行った。