芹沢家の菩提寺である曹洞宗のお寺。『新選組を創った男 芹澤鴨・平間重助』の顕彰碑が建つ。平間重助は、代々芹沢家に仕えた平間家の生まれで、芹沢鴨に神道無念流を学び、共に浪士組に参加。文久3年(1863年)9月16日、芹沢鴨と八木邸に同宿していた重助は、近藤派の襲撃を受けるが難を逃れ、行方不明とされた。しかし、秘かに郷里に戻った重助は、家族にも恵まれ、明治7年(1874年)に他界した。享年51歳。
法眼寺 | 顕彰碑 |
天保元年(1830年)、後の新選組局長芹沢鴨は、郷士上席芹沢貞幹の三男としてこの家に生まれた。15歳で潮来郷校に学び、この頃から尊皇攘夷の思想に感銘を受けたという。剣は神道無念流免許皆伝で、攘夷の資金集めや安政6年(1859年)12月の勅書返納騒動にも奔走した。生家は現在も芹沢家で管理されており、中に入ることは出来ない。
芹沢家は桓武平氏流常陸大掾多気氏の末裔で、至徳2年(1385年)、常陸大掾馬場氏の要請により芹沢良忠が常陸に移住。行方郡荒原郷芹沢をその所領とした。芹澤城は良忠から4代後の俊幹の築城といわれ、天正19年(1591年)に芹沢国幹が放棄するまで芹沢氏の行方郡宗主としての拠点となった。芹沢鴨生家の辺りに下馬門があったといわれるが、切り通しをのぼった台地上は整地されて畑となっており、城としての遺構は少ない。