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旧鹿児島紡績所技師館 鹿児島県鹿児島市吉野町9685
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旧鹿児島紡績所技師館
慶応3年(1867年)に竣工した通称「異人館」と呼ばれる洋館。慶応元年(1865年)3月にイギリスに派遣された新納久修、五代友厚らによって紡績機械の買い付けが行われ、西洋式紡績工場の指導を行うためにイギリス人技師が招聘された。この建物は彼らイギリス人技師7名の宿舎として、イギリス人によって設計され、地元の職人によって建てられたもの。維新後は明治政府に接収されて陸軍大砲製造支配所となったが、明治17年(1884年)に別の場所に移築され、昭和11年(1936年)になって現在地に再移築された。
明治天皇駐蹕跡 鹿児島県鹿児島市吉野町
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明治天皇駐蹕跡
「駐蹕(ちゅうひつ)」とは、天皇が行幸の途中で一時的に滞在すること。明治5年(1872年)6月24日、明治天皇は仙巌園を訪れ、陸軍大砲製造支配所(旧鹿児島紡績所技師館)の洋室で昼食をとられた後、陸軍大砲製造所となっていた集成館を視察された。この碑はそれを記念して陸軍大砲製造支配所(旧鹿児島紡績所技師館)の洋室跡に建てられたという。しかし、現在碑が建てられている場所は、旧鹿児島紡績所技師館の移築前、移築後の場所とも離れているため、当初碑が建てられた場所かどうかは不明。
造船所跡 鹿児島県鹿児島市吉野町
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嘉永4年(1851年)、第11代薩摩藩主島津斉彬(照国公)によって洋式船建造を目的に磯海岸に設けられた造船所跡。地元の船大工の他、長崎から招かれた船大工の手によって安政元年(1855年)3月、二代目となる「以呂波丸」がこの地で竣工した。嘉永6年(1853年)、幕府に大船・蒸気船の建造申請を行った島津斉彬は、藩内の各所に造船所を設け、蒸気機関を独自開発するなど、大型軍艦や蒸気船の建造を進めた。「照國公製艦記念碑」は東郷平八郎の揮毫によるもの。

照國公製艦記念碑全景

照國公製艦記念碑

顕彰碑
鹿児島紡績所跡 鹿児島県鹿児島市吉野町9688
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慶応元年(1865年)3月、第12代薩摩藩主島津忠義は前藩主島津斉彬の意志を継ぎ、新納久修、五代友厚らをイギリスに派遣して紡績機械を購入させ、西洋式紡績工場の指導のためにイギリス人技師を招聘した。これらの紡績機械と技師によって操業を開始したのが、慶応3年(1867年)に竣工したこの紡績所であり、日本における機械紡績の始まりといわれる。「紡績所址碑」の揮毫は島津忠義五男、島津忠備によるもの。

紡績所址碑全景

紡績所址碑

顕彰碑
登り窯跡 鹿児島県鹿児島市吉野町
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登り窯跡
第12代薩摩藩主島津忠義は、明治5年(1872年)に鶴丸城から転居して自邸となっていた仙巌園内に仙巌窯を造り、古薩摩から島津斉彬までの御庭焼を研究して仙巌焼を焼成した。島津忠義の後を継いで第30代島津家当主となった四男島津忠重は、明治32年(1899年)に暴風によって倒壊していた窯を集成館内に再建。大正4年(1915年)にこの地に窯が移されると昭和2年(1927年)に閉鎖するまでこの地で御庭焼の研究が続けられた。
尚古集成館 鹿児島県鹿児島市吉野町9698
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薩英戦争で焼失した集成館跡に慶応元年(1865年)、第12代薩摩藩主島津忠義が竣工した旧集成館機械工場跡。旧集成館機械工場は西洋式造船所である長崎製鉄所を参考に建造された日本最古の洋風石造りの機械工場で、オランダ製の蒸気機関、工作機械が備えられ、様々な機械部品の加工などを行った。維新後には明治政府に接収されて陸軍大砲製造所、海軍鹿児島造船所と変遷し、明治10年(1877年)の西南戦争では政府軍と私学校党との間で争奪戦の対象となった。敷地内には「鹿児島紡績所」誕生100年を記念した「紡績百年の碑」の他、明治5年(1872年)6月24日、当時陸軍大砲製造所となっていた同地を視察された明治天皇の「明治天皇行幸所集成館碑」がある。現在旧集成館機械工場跡は島津家の歴史を伝える博物館「尚古集成館」として公開されている。

尚古集成館

紡績百年の碑

明治天皇行幸所集成館碑
鶴嶺神社 鹿児島県鹿児島市吉野町9698
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明治2年(1869年)に鶴丸城の一画であった山下鶴嶺(現鹿児島市照国町)に創建された神社。島津家の歴代当主と家族および玉里島津家(島津久光が興した分家)の歴代当主と家族を祀る。大正6年(1873年)に第30代島津家当主島津忠重がこの地を神社に寄進したことで、山下鶴嶺から現在地に遷座された。

鶴嶺神社

手水舎

拝殿

本殿
千尋巌 鹿児島県鹿児島市吉野町
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千尋巌
仙巌園の裏山にある「千尋巌」と刻まれた巨大岩。千尋巌は11メートルにも及ぶ一枚岩で、この文字を刻むために延べ3,900名が動員され、完成までに3ヶ月を要した。この事業は第10代薩摩藩主島津斉興が、薩摩藩士の雇用確保を目的に行い、文化11年(1814年)4月に完成させたという。
仙巌園 鹿児島県鹿児島市吉野町9700
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万治年間に第2代薩摩藩主島津光久によって建設された島津家の別邸。桜島を借景とする広大な庭園を有する。嘉永4年(1851年)2月に島津斉彬が藩主となると、近代洋式工場群の実現を目指し、仙巌園を含む周辺地域で集成館事業を展開した。造船所や反射炉の建造を進め、安政4年(1857年)には鉄製150ポンド砲の製造に成功したという。文久3年(1863年)の薩英戦争で集成館は焼失するが、第12代薩摩藩主島津忠義の下、イギリスの協力を得て復興し、近代化を推し進めることとなった。
園内にある江南竹林は孟宗竹のことで、元文元年(1736年)第4代薩摩藩主島津吉貴が琉球王国から取り寄せて植えた2株から全国に広まったという。傍らに建つ「江南竹林の碑」は第10代薩摩藩主島津斉興の命で五代友厚の父五代秀堯が記したもの。

鉄製150ポンド砲(復元)

反射炉(模型)

反射炉跡

反射爐址碑

正門

錫門

仙巌園から望む桜島

曲水の庭に至る石段

磯御殿

御庭神社

江南竹林

江南竹林の碑

猫神神社