慶応3年(1867年)に竣工した通称「異人館」と呼ばれる洋館。慶応元年(1865年)3月にイギリスに派遣された新納久修、五代友厚らによって紡績機械の買い付けが行われ、西洋式紡績工場の指導を行うためにイギリス人技師が招聘された。この建物は彼らイギリス人技師7名の宿舎として、イギリス人によって設計され、地元の職人によって建てられたもの。維新後は明治政府に接収されて陸軍大砲製造支配所となったが、明治17年(1884年)に別の場所に移築され、昭和11年(1936年)になって現在地に再移築された。
「駐蹕(ちゅうひつ)」とは、天皇が行幸の途中で一時的に滞在すること。明治5年(1872年)6月24日、明治天皇は仙巌園を訪れ、陸軍大砲製造支配所(旧鹿児島紡績所技師館)の洋室で昼食をとられた後、陸軍大砲製造所となっていた集成館を視察された。この碑はそれを記念して陸軍大砲製造支配所(旧鹿児島紡績所技師館)の洋室跡に建てられたという。しかし、現在碑が建てられている場所は、旧鹿児島紡績所技師館の移築前、移築後の場所とも離れているため、当初碑が建てられた場所かどうかは不明。
第12代薩摩藩主島津忠義は、明治5年(1872年)に鶴丸城から転居して自邸となっていた仙巌園内に仙巌窯を造り、古薩摩から島津斉彬までの御庭焼を研究して仙巌焼を焼成した。島津忠義の後を継いで第30代島津家当主となった四男島津忠重は、明治32年(1899年)に暴風によって倒壊していた窯を集成館内に再建。大正4年(1915年)にこの地に窯が移されると昭和2年(1927年)に閉鎖するまでこの地で御庭焼の研究が続けられた。
仙巌園の裏山にある「千尋巌」と刻まれた巨大岩。千尋巌は11メートルにも及ぶ一枚岩で、この文字を刻むために延べ3,900名が動員され、完成までに3ヶ月を要した。この事業は第10代薩摩藩主島津斉興が、薩摩藩士の雇用確保を目的に行い、文化11年(1814年)4月に完成させたという。