後北条氏5代の居城だった名城。箱根関所を控える東海道の要衝で、貞享3年(1686年)大久保氏が封じられると、以後維新までの180余年を10代に渡り治めた。明治元年(1868年)5月、遊撃隊と同盟を結んだ小田原藩は俄に藩論を転じ、箱根湯本に到る山崎において遊撃隊と開戦した。
小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭となる清水金左衛門本陣跡。明治元年(1868年)10月8日に明治天皇が行在所とされたのを初め、明治6年(1873年)8月3日を含む、計5回行在所として使用された。
明治6年(1873年)8月4日、明治天皇が行幸された場所。この浜にて皇后宮と地引網を御覧になったことを記念し、御幸の浜と呼ばれる様になったという。
滄浪閣は、明治23年(1890年)に伊藤博文が父十蔵の隠居地として建てた別邸。民法典原案の執筆が行われたことから民法発祥の地とされる。明治30年(1897年)、大磯町に新たな別邸が完成すると滄浪閣の名前と共に移転した。現在は伊藤博文の胸像と記念碑が建つ。
滄浪閣舊址碑 | 伊藤博文公像 |
小田原七福神に数えられ、福禄寿を祭る浄土宗のお寺。本堂脇に戦死之墓がある。墓碑には静岡藩の6名の名前が刻まれている。
大蓮寺 | 戦死之墓 |
昭和12年(1937年)に田中光顕の別邸として建てられた南欧風の洋館。現在は小田原文学館として毎日9時から16時30分まで公開されている。休館日は12月29日から1月1日の4日間。尚、隣接する白秋童謡館も旧田中光顕別邸で大正モダン調の和風建築となっている。
中垣先生之碑
大久保神社は小田原藩初代藩主大久保忠世、10代藩主忠真を奉る神社。石段脇に中垣先生之碑が建つ。明治元年(1868年)5月、小田原藩は恭順と決した藩論を佐幕に転換し、箱根関所に展開した遊撃隊と同盟すると、新政府軍軍監中井範五郎らを殺害。この時、江戸にあって新政府軍から小田原藩への問罪使派遣を知った小田原藩士中垣謙斎は急遽帰国。藩主大久保忠礼の前で佐幕の無謀さを説き、藩論を再び恭順として小田原城下を戦火から救ったとされる。
山県有朋が小田原に築いた庭園で自身70歳の古希にちなみ古稀庵と名付けたもの。東京の椿山荘、京都の無鄰庵と並び、山県有朋が残した近代日本庭園の傑作といわれる。山門の茅葺切妻四脚門には、山県有朋自筆の額が掛けられ、往時の姿が復元された。現在はあいおい損害保険研修センターとなっており、庭園は日曜日の10時から16時のみ公開されている。
古稀庵山門 | 山県有朋自筆の額 |
永禄12年(1569年)、箱根湯本の宿古堂に奉られていた弘法大師作の延命子育地蔵菩薩を大座像の胎内に安置したのを始まりとする地蔵堂。境内には、新政府軍から軍監として派遣された鳥取藩士中井範五郎を始め、箱根戦争で落命した13名の名が刻まれた明治維新官軍慰霊碑と山県有朋の書となる忠魂碑が建つ。中井範五郎は明治元年(1868年)5月20日、小田原藩が俄かに藩論を佐幕に転じたことを知らず、箱根関所に小田原藩士の慰労に向かう途中、葭原久保付近で遊撃隊士によって殺害された。
早川観音の名で親しまれる聖観世音菩薩を本尊とする真言宗のお寺。箱根山崎の戦いで伊庭八郎の左腕を斬ったとされる小田原藩士で鏡信一刀流の剣客高橋藤太郎の墓がある。高橋藤太郎は伊庭八郎に倒されたとも、箱根山崎の戦いの中で被弾して落命したとも云われる。
高橋藤太郎墓 | 高橋藤太郎墓碑 |