伊藤博文の本邸滄浪閣跡。当時小田原にあった別邸滄浪閣に向かう途中、大磯に立ち寄った伊藤博文はこの土地を気に入り、梅子夫人の療養のために屋敷を建てて移り住んだ。明治30年(1897年)には本籍を移したことから本邸となる。
自らが尊敬する三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通の四人を奉った四賢堂を庭に建て、日々の戒めにしたという。四賢堂はのちに吉田茂邸に移され、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂を加えた七賢堂となって現存する。滄浪閣は、長年大磯プリンスホテル別館となっていたが、平成19年(2007年)3月末日をもって営業を終了した。
小説「夜明け前」において幕末を描いた島崎藤村が最晩年の2年余りを過ごした邸宅。昭和16年(1941年)2月、東京市麹町区(現千代田区)より大磯町に疎開した藤村は、昭和18年(1943年)8月21日、「東方の門」の朗読中に倒れ、翌未明に亡くなった。享年71歳。
日悟聖人の開山となる日蓮宗のお寺。松本良順の墓がある。松本良順は佐藤泰然の実子で、奥医師松本良甫は養父。徳川家茂、徳川慶喜に奥医師として仕え、維新後は初代陸軍軍医総監などを歴任した。明治18年(1885年)、大磯町の照ヶ崎海岸を日本最初の海水浴場と定め、海水浴の振興と大磯町の開発に尽力。晩年は、町民から贈られた妙大寺の西側一帯の地に別荘を建て、過ごしたという。享年76歳。墓碑は、実弟林董の筆によるもの。
妙大寺山門 | 松本良順墓 |
元和年間に秀誉上人が開山した浄土宗のお寺。中島信行、湘烟の墓がある。中島信行は土佐藩郷士の出身で、土佐勤王党、海援隊に参加し、坂本龍馬の代理で使者を務めるなど実務に長けていたという。維新後は、自由党結成に身を投じ、板垣退助のもとで副総理に就任。明治23年(1890年)には第一回衆議院議員選挙に神奈川県より立候補して当選し、初代衆議院議長を務めた。中島湘烟(岸田俊子)は、中島信行の後妻で女性運動家として知られたが、結婚後はフェリス和英女学校名誉教授に就任するなど女子教育の発展に尽くした。
中島夫妻墓所 | 大運寺本堂 |
東海道五十三次のうち、日本橋から8番目にあたる大磯宿の本陣跡。大磯宿には、小島家、尾上家、石井家の3軒の本陣があった。小島本陣跡には、明治3年(1870年)創業の蕎麦屋「古伊勢屋」が建つ。また、隣接するNTT側には「大磯宿小島本陣旧蹟」の碑がある。
承和4年(837年)創建という古義真言宗の古刹。境内には梅が立ち並び、名所として知られる。島崎藤村夫妻の墓がある。島崎藤村は、代々中山道馬籠宿の本陣、庄屋を務めた家に生まれ、のちに郷里において牢死した国学者の父をモデルに『夜明け前』を執筆した。大磯町には最晩年に疎開のため移転し、地福寺の墓所近くにある白梅の古木を愛したという。
帝国四大私塾のひとつに数えられる同志社を創立し、自身明治六大教育家に数えられた新島襄終焉の地。
大学設立準備中に結核を患った新島襄は、明治22年(1889年)徳富蘇峰の勧めで大磯町の百足屋旅館別館愛松園(現愛宕神社下)に滞在し、療養生活を送った。しかし、翌明治23年(1890年)1月21日、各方面に口述筆記で遺言を託し、他界。享年46歳。碑は徳富蘇峰の筆によるもので、旧百足屋旅館の玄関があったといわれる場所に建つ。
百足屋旅館の主人宮代謙吉は大磯町5代目町長を務めた人物で、松本良順の支援者でもあった。松本良順もこの百足屋に宿泊している。
大磯に日本で最初の海水浴場を開いた松本良順を記念し、政友会で幹事長を務めた鈴木梅四郎が募金を募り、昭和4年(1929年)照ヶ崎海岸に建立した謝恩碑。題字は犬養毅、碑文は鈴木梅四郎によるもの。傍らに「日本最初の海水浴場発祥地」の標柱が建つ。
松本先生謝恩碑 | 海水浴場発祥地標柱 |
神皇産霊尊、瓊々杵尊を祀る神社。創建は神武天皇の時代とされる。かつては高麗寺に属し、高麗権現社として高麗山の山頂に上宮が置かれ、両峰に白山権現、毘沙門天を勧請したことから高麗三社権現と称した。高麗の名前は古代朝鮮の高句麗に由来する。
明治元年(1868年)神仏分離により高麗神社となり、明治30年(1897年)高来神社に改称した。境内に「靖国之塔」「忠魂碑」が建つ。「忠魂碑」は東郷平八郎の筆によるもの。
高来神社 |