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坂本龍馬像 高知県高知市浦戸
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坂本龍馬像
昭和3年(1928年)に高知県出身の青年グループを中心に募金活動が行われ、竜頭岬の高台に建立された高さ15mにおよぶ坂本龍馬の銅像。近年腐食による倒壊の危険が指摘され、平成11年(1999年)に修復作業が行われた。
桂浜 高知県高知市浦戸
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桂浜
龍頭岬と龍王岬に挟まれた僅か数百mの間に弓状に広がる桂浜。月の名所としても知られる。
坂本龍馬彰勲碑 高知県高知市浦戸
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坂本龍馬彰勲碑
大正4年(1915年)に建立された坂本龍馬彰勲碑(写真左)。坂本龍馬像から少し下ったところにあり、碑面には土方久元の七言絶句が刻まれている。傍らに建つ忠魂護皇基の碑(写真右)には、日露戦争の際に龍馬が皇后の枕頭に立ち、海軍を守護する旨を語ったとされる逸話を詠んだ細川潤次郎の和歌が刻まれている。
高知県立坂本龍馬記念館 高知県高知市浦戸城山
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坂本龍馬の生涯を書簡などの豊富な史料とパネルなどの展示品で紹介する記念館。坂本龍馬の生誕150周年を記念して設立準備が始められ、平成3年(1991年)に完成した。敷地内には龍馬の脱藩を助けたといわれる実姉栄の碑やワイル・ウェフ号の舵取棒(複製)などもある。

高知県立坂本龍馬記念館

烈女坂本栄之碑

ワイル・ウェフ号の舵取棒
板垣退助墓 高知県高知市
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板垣退助墓
板垣退助の墓がある板垣家墓所は、道路沿いの藪の中にひっそりとある。徒歩で登らなくてはならないため、非常に解りづらい。
立志社跡 高知県高知市帯屋町1丁目
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立志社跡
自由民権運動の総本山となった立志社は、征韓論に敗れ下野した板垣退助が片岡健吉や林有造らと共に設立したもので、のちに愛国社へと発展した。総代は片岡健吉が勤め、社員数は1000人におよんだとのこと。中央公園内に碑が残されている。
武市瑞山先生殉節之地 高知県高知市帯屋町2丁目
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武市瑞山先生殉節之地
高知城の追手門近くにあった旧獄舎跡。文久3年(1863年)8月18日の政変後、捕縛された武市半平太の終焉の地となった。土佐勤王党に対する後藤象二郎らの執拗な取り調べは1年半余におよび、長い投獄生活の疲れからすっかり衰弱した半平太であったが、慶応元年(1865年)5月切腹を言い渡されると見事三つ文字に腹を切って果てたといわれる。享年36歳。
坂本龍馬誕生地 高知県高知市上町1丁目
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坂本龍馬生家跡。坂本龍馬は郷士坂本八平直足の次男として天保6年(1835年)11月15日、この地に生まれた。龍馬の父八平直足で3代となる郷士坂本家は、城下屈指の富商才谷屋から分家したもの。電車通り沿いに正門があったといわれる生家は昭和20年(1945年)、戦火によって焼失。現在は上町病院となっており、傍らに吉田茂の揮毫となる碑が建つ。

坂本龍馬生家跡

龍馬の電話ボックス

坂本龍馬先生誕生地碑
近藤長次郎邸跡 高知県高知市上町2丁目
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近藤長次郎の生家跡。幼少の頃から家業である饅頭屋「大里屋」を手伝い、行商をしながら勉学に励んだといわれる近藤長次郎は、後に上杉宗次郎と称し、長崎において結成された亀山社中の中心的な人物としてユニオン号の購入などに奔走。しかし、長州藩からの恩賞で1人留学を計画したことが露見し、問い詰められて自刃した。

近藤長次郎邸跡碑

近藤長次郎邸跡
才谷屋跡 高知県高知市上町3丁目
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才谷屋跡
坂本家の本家才谷屋跡。才谷の名は龍馬の変名才谷梅太郎の名としても知られる。寛文6年(1666年)、城下に質屋を創業。のちに酒造業などで富を蓄え、城下屈指の富商となる。龍馬脱藩の際には刀を無心に出掛けたといわれる。現在跡地には喫茶店さいたにやが建ち、全国龍馬ファンの集う場所となっている。
武市半平太道場跡 高知県高知市菜園場町
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武市半平太道場跡
嘉永3年(1850年)、武市半平太は吹井から高知城下のこの地に移り、安政2年(1855年)に叔父の島村寿之助と剣術道場を開いた。午前中は島村寿之助が槍術を教え、午後は武市半平太が剣術を教えるといった道場だったらしい。坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、土佐勤王党の同志達もあしげく通ったのだろうか。横堀公園内に石碑が残されている。
武市半平太旧宅 高知県高知市仁井田吹井
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屋根など改装されている箇所はあるものの、往時の姿をしっかり止めているという武市半平太の旧宅。裏手には瑞山神社と資料館があり、奥の林の中に武市半平太、富子夫妻の墓がある。富子夫人は半平太が獄中にある際、辛苦を共にするため、布団を用いずに板敷きの上で眠ったという。

武市半平太旧宅碑

武市半平太旧宅

武市半平太記念碑

武市半平太墓

富子夫人墓
中江兆民生誕之地碑 高知県高知市はりまや町
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中江兆民生誕之地碑
弘化4年(1847年)、土佐藩足軽中江元助の長男としてこの地に生まれた明治の思想家中江兆民は、フランス公使ロッシュの通訳を経て、岩倉遣欧使節団に参加。フランスへの留学を果たすとルソーに傾倒し、帰国して私塾『仏蘭西学舎』を開いたりした。
板垣退助像 高知県高知市丸ノ内
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土佐藩士板垣退助の銅像。戊辰戦争で東山道総督府参謀、大総督府参謀助などを勤めた板垣退助は、維新後参議となるが征韓論に破れると民選議院設立運動のため、立志社を設立するなどして自由民権運動の中心的存在となった。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は岐阜遊説中に襲撃された板垣退助が叫んだと言われる。

板垣退助像

板垣死すとも
自由は死せずの碑
高知城 高知県高知市丸ノ内
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高知城
関ヶ原の合戦の功績により遠州掛川6万石から土佐24万石の大名となった山内一豊によって慶長6年(1601年)、大高坂山に築城された城。山内一豊の命により、掛川城に似せて作られたといわれる四国の名城。明治維新を迎えるまで山内氏の居城となった。初め河中城といったが、この辺りは沼が多く水害が絶えなかったため、高智山城に改名されたという。
丹中山墓地 高知県高知市山手町丹中山
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隣の小高坂山と共に江戸時代から墓地山として多くの藩士や文化人が眠る山。坂本家の墓地があることでも知られるが、近年開発問題で揺れている。

坂本家墓所

坂本乙女(左)、坂本栄(中)の墓

坂本権平妻(左)の墓

坂本直(左)
坂本伊予(右)の墓

坂本権平直方(右)の墓

坂本幸(左)
坂本八平直足(右)の墓

平井収二郎の墓

坂本栄の墓

坂本栄の墓側面
柴田作衛門妻坂本八平女
平井収二郎先生之生誕地 高知県高知市山手町
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平井収二郎先生之生誕地
土佐藩郷士平井収二郎は天保6年(1835年)この地に生まれた。文久元年(1861年)土佐勤王党の結成に参加、翌文久2年(1862年)には武市半平太らと藩主山内豊範に従い、上洛すると他藩応接役に任じられ、国事に奔走。しかし、同年青蓮院宮(中川宮)の令旨を得て、前々藩主山内豊資を擁立しようとしたことが山内容堂の怒りに触れて失脚。文久3年(1863年)5月、切腹を命じられた。妹加尾は坂本龍馬の初恋の相手ともいわれる。