大久保利通の旧邸跡といわれ、石碑が残る。ここから薩摩藩邸跡(現同志社大学)は、歩いて数分。
坂本龍馬を暗殺したといわれる渡辺篤(見廻り組隊士)の墓があった。残念ながら教善寺墓地内にあった渡辺篤の墓は、数年前に無縁仏として墓地西端に整理されてしまったとのこと。探すのは難しい。
池田屋の主、池田屋惣兵衛の墓がある。但し、入江姓となっているため、注意が必要。
清浄華院 京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北ノ辺町
猿ヶ辻事件で亡くなった姉小路公知と錦旗の作成などに手腕を発揮した岩倉具視の懐刀、玉松操の墓がある。
玉松操の墓は左手手前。姉小路公知の墓は姉小路家の他の墓と共に左手奥にある。
平野国臣を始め、禁門の変の際に六角獄舎で斬られた志士30数名の墓がある。
梨木神社 京都府京都市上京区染殿町寺町通広小路上ル
三条実万、実美親子を祭神とする神社。もともと三条家の邸があった場所で、その地名にちなんで梨木神社と命名された。境内には京都三名水のひとつで唯一現存する染井の水が涌いており、汲みに訪れる人も多い。
新島襄旧邸 京都府京都市上京区松陰町寺町通丸太町上ル東側
同志社大学の創設者、新島襄の旧邸。明治11年に建てられた和洋折衷の木造建築。
文久2年12月、京都守護職として上洛した会津藩主松平容保が京都に入って旅装を解いたところ。
吉田屋跡 京都府京都市上京区鴨川西畔東三本木通丸太町上ル
幾松が桂小五郎(のちの木戸孝允)を新選組の追っ手から匿ったとされるところ。現在は何も残っておらず、大体の場所を憶測する以外にない。
「日本外史」を著した頼山陽が晩年に建てた書斎。水西荘という住居の敷地内にあった。現在は頼家の別宅となっている。
歴代天皇の御所。現在の建物は1855年に再建されたもの。敷地内には、岩倉具視や山内容堂が火花を散らした小御所会議の舞台となった小御所の他、即位の儀式の際に使用される紫辰殿などがある。
京都御所 | 小御所 |
御苑内京都御所の西側に立つ椋の木は旧清水谷家のもので、蛤御門の東側にあたる。この辺りは禁門の変の激戦地であり、長州藩士来島又兵衛はこの木の傍らで戦死した。
京都御苑の西側にそびえる門。もとは新在家御門といい、閉じられていたが、天明の大火の際に開かれたことから、火にかけられて口を開く蛤に例えられ、蛤御門と呼ばれる様になった。1864年7月の禁門の変では、この門を挟んで会津藩と長州藩が激戦を行った。
京都御所の北東にある辻。姉小路公知が暗殺されたところ。暗殺者は薩摩藩の田中新兵衛であったというが、田中新兵衛は取り調べ中に自殺。真偽は謎のままとなった。
猿ヶ辻 | 通りを挟んで立っている説明書き |
長州藩に友好的であった鷹司家の屋敷があったところ。1864年7月の禁門の変では久坂玄瑞らがこの屋敷に嘆願に訪れるが聞き入れられず、燃え盛る屋敷内にて自刃した。門前では久坂玄瑞から命を受けた入江九一が包囲していた会津藩兵によって討たれた。