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木戸孝允邸跡 京都府京都市中京区土手町通竹屋町下ル
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維新後、木戸孝允が住んだという邸跡。現在はホテルとなっており、敷地内に石碑が建つ。邸は隣接する市職員会館の敷地内に移築され、外観を伺うことが出来る。

  • 木戸孝允旧邸碑

  • 木戸孝允邸跡

  • 移築された木戸公邸
長州藩邸跡 京都府京都市中京区河原町御池
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長州藩邸があったところ(現京都ホテルオークラ)。元治元年(1864年)禁門の変に敗れた長州藩は、藩邸に火を放って京都をあとにした。敷地内には、桂小五郎像が建つ。
佐久間象山寓居跡 京都府京都市中京区木屋町御池下ル
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佐久間象山寓居跡。安政元年、吉田松陰の黒船密航事件に連座した象山は国元である松代において8年間の幽囚生活を送るが、文久2年に自由となると一橋慶喜に呼ばれて上京した。しかし、象山はここ京都において、河上彦斎により暗殺されることになる。
武市瑞山先生寓居之跡 京都府京都市中京区木屋町通三条上ル上大阪
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料亭四国屋丹虎跡(現京料理箔)。丹虎には三畳程の離れがあり、文久2年(1862年)〜文久3年(1863年)にかけて約半年間、土佐勤王党の武市半平太(瑞山)が宿所とした。四国屋十兵衛が営む旅籠四国屋は、元治元年(1864年)の池田屋事件で土方歳三率いる別動隊が向かったところとしても知られる。武市半平太は行友李風の戯曲『月形半平太』のモデルのひとり。
吉村寅太郎寓居之跡 京都府京都市中京区木屋町通三条上ル
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薩摩藩の寺田屋騒動で土佐藩に送還された吉村虎(寅)太郎は約8ヶ月禁獄され、釈放されたのち、文久3年(1863年)3月に再び上洛してこの地に居を構えた。この年の8月、吉村虎太郎は藤本鉄石らと天誅組を結成し、五条代官所を襲撃して倒幕の兵を挙げる。総裁として実戦の指揮を執るが、8.18の政変で天誅組は完全に孤立し、最後は津藩兵に討たれた。吉村寅太郎寓居之跡は武市瑞山先生寓居之跡の南隣にある。
三条制札場跡 京都府京都市中京区三条大橋西詰北側
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慶応2年9月の三条制礼場事件の現場となったところ。三条制札場事件は、6月頃から続いた何者かによる制札の損壊事件を解決するため、新選組が派遣されたもので、原田左之助、大石鍬次郎ら30数名が知らずに現れた土佐系浪人8名と大乱闘となった。
三条会所跡 京都府京都市中京区木屋町通り三条下ル東入ル
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三条制礼場事件で新選組原田左之助率いる隊士数名が待機していたところ。かつては先斗町町会所ともいった。歌舞練場の北隣辺りにあったというが、現在は碑も残っておらず、大体の位置を憶測する以外にない。
池田屋跡 京都府京都市中京区河原町通三条東入ル北側
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池田屋惣兵衛が営んだ旅籠池田屋跡(現旅籠茶屋池田屋はなの舞)。元治元年(1864年)6月5日、宮部鼎蔵を始め、尊皇攘夷派の浪士たちが密会しているという情報をもとに新選組隊士が池田屋を襲撃した。この池田屋事件により、倒れた浪士の数は14人、捕縛された浪士の数は19人にのぼり、明治維新が3年遅れたとも、5年遅れたともいう。

  • 池田屋騒動之址碑

  • 池田屋跡
酢屋 京都市中京区河原町三条下ル一筋目
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慶応3年6月、坂本龍馬は長崎から上京する土佐藩汽船夕顔丸の中で船中八策を作成し、京都に入って酢屋嘉兵衛方に投宿した。数日後、兵庫より白峰駿馬らが上京。ここ材木商酢屋の2階に海援隊京都本部が置かれることとなった。現在酢屋は創作木工芸酢屋およびギャラリー龍馬として営業している。
土佐稲荷 京都府京都市中京区蛸薬師河原町東入
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土佐藩邸の鎮守社。近隣周辺の人々の信仰も厚く、藩士以外の通り抜け参拝が許されるなど異例の措置がとられた。明治に入り、土佐藩京屋敷が売却されるにおよび、神社の衰微を憂い、近江屋初代井口新助が土佐藩用人邸を購入して現在の位置に移した。境内には坂本龍馬の像がある。

  • 土佐稲荷

  • 坂本龍馬像
土佐藩邸跡 京都府京都市中京区蛸薬師木屋町西入ル
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旧立誠小学校の前に土佐藩邸跡の小さな碑が残る。かつては蛸薬師木屋町付近一帯が土佐藩邸だったとのこと。
本間精一郎遭難の地 京都府京都市中京区先斗町
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文久2年閏8月、越後浪士本間精一郎がこの路上にて暗殺された。土佐勤皇党の岡田以蔵に斬られたといわれる。
桝屋跡 京都府京都市中京区西木屋町通四条上ル二筋目東入ル
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山城国山科毘沙門堂門跡の近習となり、梅田雲浜に勤王思想を学んだ古高俊太郎が桝屋湯浅喜右衛門と身を偽り、筑前福岡藩御用達の薪炭商桝屋を営んでいたところ(現志る幸)。元治元年(1864年)6月5日、新選組は古高俊太郎を捕縛し、桝屋から多数の武器弾薬を押収。捕縛された古高俊太郎の自白が池田屋事件への導火線となった。

  • 古高俊太郎邸跡碑

  • 桝屋跡
中岡慎太郎寓居之地 京都府京都市中京区河原町通四条上ル東側
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土佐藩士で陸援隊を組織した中岡慎太郎の寓居跡(現抹茶館)。

  • 中岡慎太郎寓居之地碑

  • 中岡慎太郎寓居跡
谷干城寓居跡 京都府京都市中京区河原町通四条上ル一筋目東入ル
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土佐藩士谷干城の寓居跡。通りを挟んで北側には中岡慎太郎の寓居跡があり、河原町通りを西に渡って北に歩くと坂本龍馬の起居した近江屋がある。
現在は何も残っておらず、場所を憶測する以外にない。
近江屋跡 京都府京都市中京区河原町通蛸薬師下ル
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井口新助が営んだ土佐藩御用達の醤油商近江屋跡。実際には近江屋の北隣の位置に碑が建っている。慶応3年(1867年)11月15日、見廻り組の隊士7名がこの近江屋に坂本龍馬を訪ね、坂本龍馬と中岡慎太郎の両名を暗殺したと云われている。実行犯が見廻り組であったか否か、また黒幕が誰であったか、この事件に関する議論は尽きない。
薩摩屋跡 京都府京都市中京区麩屋町通錦小路
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薩摩藩士の定宿。錦小路通りと麩屋町通りの交差するこの辺りにあったとのこと。現在は何も残っていないため、場所については憶測する以外にない。
新徳寺 京都府京都市中京区坊城通綾小路下ル東側
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臨済宗永源寺派の寺院。文久3年(1863年)2月に上洛した浪士隊の黒幕である清河八郎が宿所とした。清河八郎は、この本堂に浪士隊234名を集め、この浪士隊が将軍警護ではなく、攘夷の先鋒として上洛したことを宣言した。
旧前川邸 京都府京都市中京区坊城通綾小路下ル東側
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八木邸と同じく、文久3年(1863年)2月より浪士隊が分宿し、のちに新選組屯所として使用された旧前川荘司屋敷。元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件に先駆け、前川邸の東側の土蔵において古高俊太郎の拷問が行われた。総長山南敬助および副長助勤野口健司が自刃した部屋も現存する。現在は持ち主が代わっており、公開はされていない。
ホームページ 新選組屯所旧前川邸
八木邸 京都府京都市中京区坊城通綾小路下ル西側
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前川邸と同じく、文久3年(1863年)2月より浪士隊が分宿し、のちに新選組屯所として使用された旧壬生村郷士八木源之烝屋敷。現在は長屋門と母屋だけが残る。文久3年(1863年)9月18日、局長芹沢鴨以下、芹沢派隊士が母屋で近藤派により暗殺された。その当時の刀傷が母屋に残る。隣接する鶴屋は八木家の方が経営されているとのこと。昔はこの鶴屋の立つ場所に離れがあったという。平成29年2月現在、鶴屋の抹茶、屯所餅付き1000円で一般公開されている。
ホームページ 八木家

  • 八木家

  • 新選組遺蹟碑

  • 新選組屯所遺蹟碑
壬生寺 京都府京都市中京区坊城通綾小路下ル西側
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総本山を奈良の唐招提寺とする正暦2年(991年)の創建という律宗の大本山。局長芹沢鴨を始め、新選組隊士の墓がある。当時、壬生寺の境内は新選組による剣術、馬術や大砲の調練に使用された。境内では沖田総司がよく近所の子供達の相手をしていたという。新選組隊士の墓や近藤勇の胸像が建つ壬生塚へ入るには参拝・拝観料が必要となっている。
ホームページ 壬生寺

  • 壬生寺

  • 河合耆三郎墓

  • 近藤勇遺髪塔

  • 近藤勇之像

  • 芹沢鴨・平山五郎墓

  • 新選組隊士合祀墓
横井小楠殉難の地 京都府京都市中京区寺町通丸太町
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明治2年1月、横井小楠が暗殺されたところ。石碑が残る。
京都所司代上屋敷跡 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
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幕府老中に次いで重要な役職とされた京都所司代の上屋敷があったところ。京都所司代は、文久2年(1862年)に京都守護職が設けられると京都守護職の管轄に属した。元治元年(1864年)、山城淀藩稲葉氏の後任として、京都守護職松平容保の実弟である桑名藩主松平定敬が京都所司代に就任し、京都を舞台に兄弟で幕末の難局を切り抜けて行くことになる。所司代屋敷址碑は、北側の丸太町通沿いにも建つ。
橋本左内寓居跡 京都府京都市中京区堀川通二条城前
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福井藩主松平春嶽の懐刀である福井藩士橋本左内の寓居跡。福井藩邸の北隣にあたる。橋本左内は安政の大獄で捕縛、死罪となった。享年25歳。平成29年2月現在、同地は工事中となっており、碑も撤去されている。
福井藩邸跡 京都府京都市中京区堀川通二条城前
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越前福井藩邸のあったところ。平成29年2月現在、同地は工事中となっており、碑も撤去されている。
二条城 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
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元離宮二条城。もとは徳川家康が上洛の際の宿所として建てたもので、最後の将軍となった徳川慶喜はこの二条城で将軍職を拝命し、のちに大政奉還を行うこととなった。