小川亭は肥後藩邸より近かったこともあり、特に肥後藩士に好まれ、しばしば志士達の密会の場として利用された。宮部鼎蔵、河上彦斎の他、桂小五郎なども出入りしていたという。また、女将てい女は勤王家としても知られ、明治以後はてい女を慕って投宿するものも多かったとのこと。
高杉晋作が住まいしていたという魚品楼跡。白川橋の北側にあったという。
現在は石碑も残っておらず、大体の場所を憶測する以外にない。
明治元年2月、明治天皇に拝謁に向かう途中のイギリス公使パークスが林田衛太郎と三枝蓊に襲われたところ。
素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱神子神(ヤハシラノミコガミ)を祭神とし、656年創建という由緒ある神社。長い間、祇園社と称したが、明治4年の神仏分離に伴い、八坂神社と改称された。文久元年10月3日、江戸に出発する皇女和宮が参拝に立ち寄った他、慶応2年4月には、この石段下で新選組谷三十郎が暗殺された。
元治元年6月5日、池田屋襲撃前に近藤勇、土方歳三以下、新選組隊士達が祇園宵宮の人混みに紛れ、集合したところ。現コンビニローソン。
お茶屋奈良富のあったところ。西郷隆盛の馴染みであった仲居お虎がいた。お虎は一升の酒を軽く明けてしまうほどの酒豪であったといい、その豪快さから西郷隆盛に愛されていたという。
坂本龍馬と中岡慎太郎の像
八坂神社の裏手にある公園。
坂本龍馬と中岡慎太郎の像がある。
写真左側が坂本龍馬、右側が中岡慎太郎。
島田魁の墓
親鸞聖人の御廟である大谷祖廟に隣接する東大谷墓地は、黒谷、西大谷と並び京都三大墓地と呼ばれ、約2万基の墓石が建つ。この26区に新選組隊士島田魁の墓がある。島田魁は新選組古参の隊士のひとりで、永倉新八の2番隊で伍長を勤めたりした。
高台寺塔頭月真院。新選組と袂をわかった伊東甲子太郎らは、御陵衛士を拝命し、高台寺の塔頭である月真院を屯所とした。彼らはここを根城に薩摩藩や勤皇派の志士たちと交流を深めて行くこととなる。
現在、月真院は公開されてないが、門前に高台寺党屯所跡の碑が残る。
清水寺成就院住職月照が隠棲したお寺。安政2年より約1年程、この寺で過ごした。安政の大獄により、幕府の追及が周辺に及ぶに至り、西郷隆盛を頼って京都を脱出。鹿児島に向かうが、安政5年11月、鹿児島に到着した直後、西郷隆盛と共に薩摩湾に身を投げた。
霊山護国神社に隣接する幕末専門の歴史資料館。企画展示にも力を入れており、霊山歴史館所蔵の資料の他、貴重な品々を見ることが出来る。
文久3年、武市半平太、久坂玄瑞、井上聞多らがしきりに会合を開いたところ。特に6月17日に行われた会合は「翠紅館会議」と呼ばれ、攘夷の具体的な決行手段などについて話し合われたという。かつては西本願寺の別荘であったが、現在は料亭京大和として営業している。
翠紅館跡
翠紅館跡碑
方広寺の大鐘
豊臣家滅亡のきっかけとなった大鐘のあることで有名な方広寺。坂本龍馬の妻となったお龍の母親が、かつて留守居をしていたという。北添佶摩が大仏殿に潜んでいるという情報のもと、土方歳三率いる新選組隊士が襲撃したのもこのお寺。
真言宗智山派総本山。もとは豊臣秀吉が嫡子鶴松の菩提を弔うために建立した寺で祥雲寺といった。幕末の四賢候に数えられた土佐藩主山内容堂が宿所としたところ。
九条道家が祖父兼実の菩提寺として建立。東福寺は東大寺と興福寺に由来している。通天橋は紅葉の名所として有名。日本最古の三門があり、その傍らに山県有朋の手による防長忠魂碑がある。
東福寺三門
防長忠魂碑
高台寺党の墓
泉涌寺塔頭。新選組高台寺党の墓があり、伊東甲子太郎を始め、藤堂平助らが眠る。
墓地は同じ泉涌寺の塔頭である即成院の西側路地を入ったところ。入り口が判りづらいので注意して探さないと見逃してしまう恐れあり。
孝明天皇稜
もとは法輪寺といい、弘法大師空海の創建による古刹。泉涌寺と改名された後、天皇家の香華院(菩提寺)となり、御寺と呼ばれた。孝明天皇稜がある。