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シーボルト宅跡 長崎県長崎市鳴滝2丁目
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オランダ商館の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが文政7年(1824年)に長崎奉行の許可を得て民家を買い取り、鳴滝塾を開設した邸宅跡。高野長英、伊東玄朴、二宮敬作らがこの地で学んだ。文政11年(1828年)シーボルト事件で出島に拘禁されると翌文政12年(1829年)には国外追放処分となる。しかし、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの嘆願により、国外追放処分を解かれたシーボルトは、安政6年(1859年)に再来日してから文久2年(1862年)に帰国するまでの間、この鳴滝塾を買い戻して住居とした。

シーボルト先生之宅址碑

シーボルト像

居宅跡

書斎跡

倉庫跡
シーボルト記念館 長崎県長崎市鳴滝2丁目
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シーボルトを顕彰する目的で、平成元年(1989年)長崎市がシーボルト宅跡に隣接する地に開設した記念館。建物の外観はオランダのライデン市にあるシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージしたもの。外国人を顕彰する目的で建てられた記念館は国内初であると云い、シーボルトの遺品などが収蔵、展示されている。

シーボルト記念館遠景

シーボルト記念館

若き日のシーボルト像
鳴滝岩 長崎県長崎市桜馬場2丁目
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寛文11年(1671年)より10年間、第23代長崎奉行を務めた牛込忠左衛門勝登が、この地を訪れた際、京都洛北の鳴滝にちなんで『鳴瀧』と命名した場所で、唐通事で書家の林道栄に書かせた『鳴瀧』の文字を岩に刻ませたのが始まりという。後に文字が風化したため、文政11年(1828年)晧台寺の第21代住職で学僧として知られた黄泉無著の書によって再刻された。

鳴滝岩

鳴瀧の文字
本蓮寺 長崎県長崎市筑後町
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かつて長崎の三大教会に数えられながら、キリシタン禁令により破却されたサン・ジョアン教会、サン・ラザロ病院跡地に元和6年(1620年)大村本経寺住職日恵が建立した日蓮宗の古刹。晧台寺、大音寺と共に長崎三大寺に数えられた。安政2年(1855年)から約4年間、海軍伝習所時代の勝海舟が塔頭大乗院を宿所とした他、松本良順も大村町医学伝習所に移るまでの間、塔頭大乗院を最初の宿所とした。また、安政6年(1859年)に息子アレクサンダーと再来日を果たしたシーボルトは、瀧、イネと塔頭一乗院において再会したが、大乗院、一乗院共に現存しない。
近年、西川家墓所内に、海援隊士沢村惣之丞の墓が確認された。

勝海舟寓居の地碑

本蓮寺本堂
長崎歴史文化博物館 長崎県長崎市立山1丁目
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平成17年(2005年)11月に「近世長崎の海外交流史」をテーマとして開設された博物館。博物館内には、かつてこの地にあった長崎奉行所(立山役所)の一部が復元されている。復元に伴う発掘調査では正面階段と石垣の一部が発見され、往時のままの形で再利用された。長崎奉行所は従来万才町付近に置かれていたが、寛永10年(1633年)の大火により焼失したため、江戸町にある現在の長崎県庁の地に移転。移転後に再度火災による焼失を経て、東西役所となり、延宝元年(1673年)この地に東役所が移されて立山役所と称した。慶応3年(1867年)イギリス人水夫が殺害されたイカルス号事件では、海援隊士が嫌疑を受け、坂本龍馬をはじめ海援隊士らが取り調べを受けた場所としても知られる。
敷地内には、明治天皇臨幸之址碑が建つ。明治5年(1872年)6月、明治天皇は西郷隆盛を伴い、この地に置かれていた長崎県庁を視察された。

長崎奉行所

明治天皇臨幸之址碑
長崎公園 長崎県長崎市上西山町
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諏訪神社と長崎歴史文化博物館、県立長崎図書館の狭間にある公園。
上野彦馬は国内写真術の祖となった人物。ツュンベリー記念碑は、スウェーデン人のオランダ商館医師ツュンベリーの渡来200年を記念して建てられたもの。杉享二は国内統計学の祖と呼ばれ、勝海舟塾の塾頭、老中阿部正弘の侍講を務めた人物。施福多君記念碑は、施福多(シーボルト)を記念したもので、傍らに建つ建施君記念碑は、施福多君記念碑の賛同者125名を彫名したもの。公園内には他にも時代を問わず、様々な石碑が建つ。

上野彦馬之像

ツュンベリー記念碑

杉享二先生之碑

建施君記念碑

施福多君記念碑
小曽根邸の跡 長崎県長崎市万才町
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小曽根邸の跡碑
小曽根家は、平戸の貿易商で出島築造に際し出資を行った25人の出島町人のひとり、平戸道喜を祖先とする長崎の豪商。第12代当主小曽根六左衛門は越前藩、佐賀藩の御用商人を務め、第13代当主乾堂は亀山社中のスポンサーとしても知られる。乾堂は文人でもあり、明治政府の御璽・国璽を拝刻した篆刻家でもあった。小曽根家には亀山社中の本部が置かれ、海援隊となった後も変わることがなかった。慶応2年(1866年)近藤長次郎が切腹したのもこの屋敷である。
現在は、長崎地方法務合同庁舎となっている。
大村町医学伝習所跡 長崎県長崎市万才町
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大村町医学伝習所跡
長崎奉行所西役所内から高島秋帆邸内西北隅の二階建長屋に移設された大村町医学伝習所跡。万延元年(1860年)大村町医学伝習所に入門した長与専斎は自伝『松香私志』に「八畳六畳くらいの一間に二人三人ずつ机を構え、その上に幾冊となく原書を積み坐蒲団を敷き袂時計を帯びたる有様は、適塾自費の寒書生たりし者の目にはただ驚くばかり」と医学伝習所内の様子を記している。跡地は現在、長崎地方裁判所となっており、長崎家庭裁判所1階ロビーに高島家時代の出土品が展示されているとのこと。
医学伝習所跡 長崎県長崎市万才町
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医学伝習所跡
安政4年(1857年)11月12日、長崎奉行所西役所内においてオランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトによる近代西洋医学最初の講義が行われた。この日は医学伝習所の流れを汲む長崎大学医学部の創立記念日に定められている。医学伝習所は、伝習生の数が増えたことを受け、程なく坂をひとつ登った先にある高島秋帆邸の西北隅の長屋(大村町医学伝習所)に移された。医学伝習所跡には長崎グランドホテル(画像奥の建物)が建ち、医学伝習所跡の碑もあったが、現在は店舗付マンション建設予定地となっており、碑は撤去されている。
吉雄耕牛宅跡 長崎県長崎市万才町
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吉雄耕牛宅跡碑
吉雄耕牛は阿蘭陀通詞の大家で蘭方医。53年間におよぶ通詞の傍らオランダ商館の医師、特にツュンベリーに医学を学び、吉雄流紅毛外科の祖となる。私塾成秀館は隆盛を誇り、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢、平賀源内、林子平などが耕牛に蘭学を学んだ。『解体新書』の出版にあたっては、杉田玄白らに請われて序文を書いている。耕牛宅の2階には阿蘭陀部屋と呼ばれる部屋があり、オランダから輸入された家具が配置され、西暦の正月を祝う『オランダ正月』が催されるなど、長崎の名所としても知られた。
現在は、長崎県警察本部となっている。
長崎県庁 長崎県長崎市江戸町
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イエズス会本部跡、長崎奉行所西役所跡、長崎海軍伝習所跡。元亀2年(1571年)ポルトガル人フィゲイレド神父により、岬の教会として建てられたのが始まり。最盛期には長崎三大教会に数えられ、イエズス会本部が置かれたが、キリシタン禁令により破却された。寛永10年(1633年)、大火により焼失した長崎奉行所がこの地に移り、東西役所が置かれたが、東役所が立山に移転したため、西役所のみとなる。嘉永6年(1853年)ロシア使節プチャーチンと幕府全権筒井政憲、川路聖謨が、西役所において会見を行った他、安政2年(1855年)には西役所内に海軍士官の養成機関である海軍伝習所が設置され、オランダ人教授陣より航海術などが伝授された。長崎大学医学部の前身となるポンペが教授した医学伝習所も当初は西役所内に置かれた。
イエズス会本部跡、長崎奉行所西役所跡、長崎海軍伝習所跡碑
出島和蘭商館跡 長崎県長崎市南山手町
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出島は、寛永13年(1636年)、ポルトガル人を収容し、布教活動を制限する目的で築かれた扇形の人工島。寛永16年(1639年)、ポルトガル人が追放され、平戸にあったオランダ商館が移されると安政6年(1859年)に長崎が開港されるまで218年間、海外に開かれた国内唯一の窓口となった。特に幕末においては、海外情勢の仕入れ先としてオランダ商館の果たした役割は大きい。商館長のヘンドリック・ドゥーフ、ヤン・ドンケル・クルチウスや商館医で出島の三学者と呼ばれるエンゲルベルト・ケンペル、カール・ツュンベリー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトなど、政治や学問の各分野において貢献した人物も多い。明治以降、埋め立てが進み、完全に市街地に埋没した形となっていたが、長崎市による敷地の公有化、建物の復元工事が進み、将来的には四方に水面を確保し、扇形の島を完全に復元するとしている。

表門橋付近

出島遠景

新石倉

旧石倉と陶製の門柱

ブロンズ製12ポンド砲(青銅製大砲)

水溜

旗竿

東インド会社意匠

時鐘

ケンペル・ツュンベリー記念碑

シーボルト里帰り植物

鉄製大砲

出島先学顕彰薬園碑
所在標

オランダ石門

南側護岸石垣

出島南東端と旧出島神学校
銅座跡 長崎県長崎市銅座町
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銅座跡碑
享保10年(1725年)に棹銅を鋳造するための銅吹所が置かれたことから銅座と呼ばれ、元文3年(1738年)に銅吹所が廃止された後は、銅座跡(総町外)と呼ばれた。シーボルトの妻瀧は、銅座町のこんにゃく商楠本佐平衛の四女として生まれ、銅座町でイネを産んだとされる。楠本イネは後に長崎に戻り、銅座町で開業している。
土佐商会跡 長崎県長崎市築町
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土佐商会跡碑
土佐商会は、慶応2年(1866年)土佐藩が藩の経済活動を活性化するために設けた役所で、慶応3年(1867年)この地に長崎出張所が設置された。初代主任後藤象二郎の後を受け、主任・長崎留守居役に抜擢された岩崎弥太郎は、長崎出張所として土佐の産物を販売し、西洋式の武器を購入する活動の傍ら、亀山社中から土佐藩の外郭組織となり、長崎出張所を活動の拠点としていた海援隊の運用資金の捻出、資金管理なども行った。
大浦けい居宅跡 長崎県長崎市油屋町
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大浦けい居宅跡碑
大浦慶は日本茶貿易の先駆者。大浦家は油屋町にあった江戸時代初期から続いた油商であったが、天保の終わり頃から家運が衰退。慶は、大浦家の再興のため、嬉野茶の輸出に着眼し、嘉永6年(1853年)通詞品川藤十郎を通し、出島のオランダ商人テキストルに嬉野茶のサンプルを託した。安政3年(1856年)製茶業を営むウィリアム・オルトのオルト商会から大量の注文を受け、嬉野茶だけではまかないきれずに九州一円の日本茶を1万斤(1斤=600g)だけ集めて輸出したという。日本茶の輸出で名声と財を成した慶は、海援隊士らに援助を惜しまなかったが、明治4年(1871年)遠山事件と呼ばれる詐欺事件に遭って破産し、寂しい晩年を送ったという。
グラバー園 長崎県長崎市南山手町
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グラバー邸を中心に往時のまま現存するリンガー邸、オルト邸に加え、長崎市内より6つの洋館を移築保存する公園。開港間もない安政6年(1859年)に長崎でグラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーは、万延元年(1860年)から造成の始まった長崎の外国人居留地(東山手・南山手一帯)に文久3年(1863年)グラバー邸を構え、この地には坂本龍馬をはじめとする幕末の著名な人物が足を運んだ。グラバー邸前の巨大な蘇鉄は、親交のあった薩摩藩主島津家からグラバーに贈られたもの。グラバーの妻ツルがモデルといわれるオペラ『マダム・バタフライ(蝶々夫人)』を演じた三浦環の像などもある。

グラバー園から市街を臨む

グラバー園小径

蘇鉄

旧ウォーカー住宅

旧グラバー住宅

庭園

居留地境界石柱

三浦環の像

トーマス・ブレーク・
グラバー之像