御三家筆頭尾張名古屋藩徳川家の中屋敷跡。尾張名古屋藩は徳川家康の九男徳川義直を藩祖とする61万石の藩。尾張名古屋藩14代藩主慶勝、会津藩9代藩主松平容保、桑名藩4代藩主松平定敬の兄弟を輩出した美濃高須藩は尾張名古屋藩の分家にあたる。
明治7年(1874年)1月14日、赤坂仮御所から馬車で喰違見付にさしかかった岩倉具視は、征韓論を退けられたことに恨みを持つ武市熊吉ら9人の刺客に襲撃された。幸い堀に逃れ、命は助かったものの、右大臣が襲撃されるという事件に世間の受けた衝撃は大きかった。
土塁
喰違見附跡
譜代筆頭近江彦根藩井伊家の中屋敷跡。徳川四天王に数えられる井伊直政を藩祖とする35万石の藩で、江戸時代を通じ、幕末の井伊直弼まで5人の大老を輩出した。中屋敷跡には現在ホテルニューオータニが建つ。
紀尾井坂の名前は、坂を挟んで『紀』伊和歌山藩徳川家、『尾』張名古屋藩徳川家、近江彦根藩『井』伊家の各屋敷が接していたことに由来する。
紀伊和歌山藩徳川家中屋敷跡に設けられた公園。贈右大臣大久保公哀悼碑が建つ。明治11年(1878年)5月14日、内務卿大久保利通は赤坂仮御所に向かう途中、清水谷公園付近で征韓派の石川県士族島田一郎らに襲撃され、暗殺された。享年49歳。
紀伊和歌山藩徳川家の中屋敷跡。紀伊和歌山藩は徳川家康の十男徳川頼宣を藩祖とする55万5千石の藩で、御三家のひとつに数えられ、8代将軍吉宗、14代将軍家茂を輩出した。紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡碑は、弁慶橋の袂に建つ。
天保元年(1830年)、高野長英が麹町貝坂に開いた蘭学塾跡。高野長英は講義を行う傍ら、国内初の生理学書となる「医原枢要」や「二物考」など多くの書物を著した。
大観堂学塾跡案内板
大観堂学塾跡
儒学者安井息軒が慶応元年(1865年)に購入し、明治元年(1868年)に焼失するまで住んだ屋敷跡。西に富嶽を望み、東に金杉の海が眺められるところから海嶽楼と称した。門下出身の雲井龍雄と月見をした場所としても知られる。現ふくおか会館。
彦根藩主であり、幕府大老として安政の大獄や日米和親条約の締結など、絶大な権力を揮った井伊直弼の屋敷があったところ。江戸城の西南にあたり、ここから桜田門を望むことが出来る。現在は憲政記念館となっており、敷地内に由来が記された碑がある他、東側道路沿いに井伊直弼屋敷跡の碑が残る。江戸時代初期には加藤清正が住まいしていたともいう。
幕末の四大道場のひとつであった斉藤弥九郎の神道無念流道場練兵館跡。斉藤弥九郎の練兵館は指導が判りやすく、上達が早いため、免許皆伝が比較的短期間で修得出来るとして人気があった。
現在は靖国神社の敷地となっており、碑が残るのみとなっている。
明治天皇により、幕末維新期の殉難者供養のため建立された神社。敷地内にある遊就館には幕末関連の資料も数多く展示されている。
長州藩士。兵学者。緒方洪庵に師事し、医学、西洋学に励んだ後、宇和島藩で兵書翻訳、軍艦の製造に従事。幕府の蕃書調所教授、講武所教授を経て、長州藩の軍制改革の中心的存在となる。戊辰戦争では全作戦を指揮、維新後は兵部大輔として兵部省の基礎固めを行った。
薩摩藩士。西郷隆盛の従兄弟にあたり、維新後は初代陸軍大臣、満州総司令官を経て、元帥となった。会津藩士山川尚江の娘、捨松と結婚したことでも知られる。銅像は初め陸軍参謀本部前にあったが、戦後になってこの地に移された。品川弥二郎像の隣に建つ。
長州藩士。松陰門下のひとり。近代天皇制国家の骨格作りに大きな役割を果たしたという。維新後、駐独公使、宮中顧問官などを経て、内務大臣となるが失脚。京都にて病没した。大山巌像の隣に建つ。
洋書の翻訳を中心に海外事情の調査とその教育を行ったところ。安政2年に幕府天文台の翻訳部門から独立し、洋学所となると蕃書調所、洋書調所、開成所と変遷を重ね、明治2年に大学南校となって現在の東京大学(法学部、文学部、理学部)の前身となった。
御三卿に数えられる一橋家は、寛保元年(1741年)に分家された8代将軍吉宗の四男宗尹を初代とする家。御三卿は将軍後嗣を排出することの出来る資格と10万石の石高を持ち、御三家につぐ家格を有するが、藩としての基盤を持たず、将軍家の身内として江戸城内に屋敷を賜わった。一橋家からは、11代将軍家斉、15代将軍慶喜を輩出している。現丸紅本社。
文久2年1月15日、坂下門外の変があったところ。ときの老中安藤信正が、登城途中、水戸浪士らに襲撃された。
しかしながら、桜田門外の変での教訓から警備が厳重であったため、安藤信正は軽傷で済み、暗殺には至らなかった。
坂下門
手前左側が安藤信正屋敷跡
岩城平藩主で幕府老中であった安藤信正の屋敷があったところ。彼は井伊直弼の後を継ぎ、和宮降嫁などに奔走するが、孝明天皇廃帝の動きがあるなどと噂され罷免。永蟄居を命ぜられ、のち明治4年に没するまで政治の表舞台に名前が上ることはなかった。現在坂下門の東側にあった敷地は整備され、何も残っていない。
万延元年3月3日、桜田門外の変があったところ。ときの大老井伊直弼は、登城のため、この桜田門に向かう途中で薩摩浪士を含む、水戸浪士の集団に暗殺された。このとき、行列の最後尾はまだ井伊直弼の屋敷の門を出ていなかったという。
読売新聞発祥の地。明治6年(1873年)、読売新聞社の前身である日就社から英和辞典を出版した旧大垣藩士子安峻らは、翌明治7年(1874年)12月2日に読売新聞を創刊した。漢字にかなをふったことが漢字教育を受けていない市民からも支持され、のちに全国紙へと発展した。碑は虎ノ門交差点近くに建つ。
明治2年(1869年)12月20日、佐賀藩邸に鍋島直大を訪ねた江藤新平は、その帰途、藩政改革に不満を抱いた佐賀藩足軽出身の6名の刺客(池田園助、村山甚蔵、百田栄次、袋貞十、大園忠三郎、染川某)に襲撃された。江藤新平は傷を負ったが、一説に外堀に逃げて助かったという。碑は江藤新平の友人で、森鴎外の岳父としても知られる荒木博臣の遺言により、建立された。
幕府の武道指南所である講武所が置かれたところ。男谷精一郎や伊庭八郎などもこの講武所に通った。案内板は日本大学図書館の敷地内にあるが、実際には日本大学図書館北の道路から神田川までの一帯(現在の三崎町2丁目から3丁目の辺り)にあったとのこと。
お玉が池種痘所があったところ。安政5年に伊東玄朴らによって建てられたお玉が池種痘所は、のちに幕府直轄の西洋医学所となり、東京大学医学部の前身となった。
もともとは桜ヶ池と呼ばれていたお玉が池には貞女お玉入水の伝説があり、お玉稲荷はそのお玉の霊を鎮めるために建てられたという。現在はお玉稲荷の傍らにお玉が池跡の標柱が建てられ、この地に池があったことを伝えている。
北辰一刀流千葉周作の道場である玄武館があったところ。儒学者東條一堂の塾の隣にあたり、文武両道が学べるということもあって評判となった。現在は千桜小学校の敷地となっており、校門を入ったところに碑が残っている。