幕臣栗本鋤雲の屋敷(借紅園)跡。栗本鋤雲は元幕府奥医師で、文久2年(1852年)士籍に転じ、横須賀製鉄所の建設に尽力。維新後は政府に出仕せずに東京日日新聞、報知新聞においてジャーナリストとして文筆を振るい、明治30年(1897年)この地で亡くなった。75歳。
文久3年(1863年)3月から慶応元年(1865年)6月までの間、飯田町の新徴組屯所と共に新徴組の拠点となった場所。京都より戻った浪士組は、改めて庄内藩預かりの新徴組となり、当地(本所三笠町)の小笠原加賀守屋敷と飯田町の田沼玄蕃頭屋敷に分宿した。
伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍の屋敷跡。英龍の祖父の時代より同地にあった屋敷は伊豆韮山代官の役所を兼ねていたと言われ、嘉永6年(1853年)英龍の手附となったジョン万次郎も敷地内の長屋に住んでいた。英龍は嘉永6年から翌安政元年に掛けて品川台場を築造するなどしたが、安政2年(1855年)54歳でこの地に亡くなった。
陸奥弘前藩津軽土佐守上屋敷跡。藩主津軽承昭は熊本藩主細川斉護の四男。明治元年(1868年)奥羽越列藩同盟が成るとこれに参加するが、後に恭順して同盟を脱退し、箱館に出兵したりした。現在、藩邸跡の一部が緑町公園となっている。
安永3年(1774年)創建となる日蓮宗のお寺。大阪能勢妙見山の別院として妙見山より妙見尊像が分祀されている。妙見堂は勝海舟の父小吉が信仰していたことでも知られ、天保2年(1831年)海舟が犬に急所を咬まれた際には同所で水垢離をしたと伝えられる。
能勢妙見堂 | 勝海舟の胸像 |
男谷精一郎邸跡。勝海舟は文政6年(1823年)1月30日、父小吉の実家であるこの男谷家の邸内で生まれた。初代講武所頭取となる直心影流男谷精一郎は海舟の従兄弟にあたり、海舟自身も幼少の頃より島田虎之助の下で直心影流を学んで免許皆伝を得ている。現在は両国公園となっており、公園内に碑が残る。
尺振八が明治3年(1870年)に開いた私塾共立学舎跡。ジョン万次郎、西吉十郎に英語を学んだ尺振八は、文久3年(1863年)の遣欧使節団、慶応3年(1867年)の遣米使節団に参加し、帰国して寄宿制英語塾である共立学舎で後進の指導にあたった。注意しないと見過ごしてしまいそうな位置に説明板が建てられている。