木戸孝允の駒込別邸跡。現在は電通生協会館となっており、傍らに碑だけが残る。近くの駒込東公園から東へ下る急坂を木戸坂といい、駒込別邸に由来するという。広大な敷地であったことが伺える。
元和2年(1616年)弘済禅師の開山、幕府御殿医中川元享の創建となる臨済宗妙心寺派のお寺。初め湯島天神の前にあったが、焼失再建を繰り返し、昭和に入ってから現在の地に移転した。墓地には中興開基となる老中田沼意次の他、京都見廻組頭を勤めた浅尾藩主蒔田広孝の墓がある。
田沼意次の墓
蒔田広孝の墓
伊達慶邦公墓址記念碑
真言宗豊山派のお寺。伊達慶邦公墓址記念碑が建つ。伊達慶邦は仙台藩13代藩主で、明治元年(1868年)には奥羽越列藩同盟の盟主となった。敗戦後は東京で謹慎生活を送り、明治7年(1874年)逝去。享年50歳。遺体は初め西福寺に埋葬されたが、後に仙台の大年寺(現在は廃寺。伊達家墓所のみが残る。)に改葬された。伊達慶邦公墓址記念碑は旧家臣によって建立されたという。
染井通りの南側にあった津藩藤堂家32万3千石の下屋敷裏門で、染井通りの反対側に移築されたもの。往時の大名下屋敷の雰囲気を伝える数少ない遺構となっている。
徳川慶喜が駿府より東京に戻った明治30年(1897年)から明治34年(1901年)までの4年間を過ごした巣鴨邸跡。広大な敷地には水戸に因んで多くの梅の木が植えられたというが、巣鴨邸の側に鉄道が開通することが決まると鉄道開通による騒音を嫌って
第六天町の邸に転居した。
司馬江漢の墓
明治45年(1912年)この地に移転した慈眼寺は、元和元年(1615年)後水尾天皇により深川六間堀に建立されたという日蓮宗の古刹。司馬江漢の墓がある。洋風画家として知られる司馬江漢は、天明3年(1783年)独学で日本初の腐蝕銅版画の技法を完成させた。本堂天井には司馬江漢の描いた龍があったといわれるが残念ながら焼失している。
新門辰五郎の墓
浄土宗のお寺。新門辰五郎の墓がある。江戸町火消し「を組」の組頭、新門辰五郎は、浅草寺別院伝法院の新門警備を行ったことから新門と呼ばれる様になった。娘が徳川慶喜の愛妾だったともいい、慶喜上洛の際には同道して身辺警護などを行っている。墓は元々西蓮寺にあったが、大正に入ってから隣接する盛雲寺と合併する形でこの地に移転した。
新門辰五郎の分骨墓
天台宗のお寺。下谷善養寺町から明治45年(1912年)、この地に移転した。新門辰五郎の養家である町田家の墓がある。新門辰五郎の養父町田仁右衛門は輪王寺宮の衛士で、その関係から輪王寺宮が浅草寺別院伝法院に隠棲する際に設けられた門(新門)の警備を任されたのが辰五郎であったという。町田家の墓には新門辰五郎の分骨が埋葬されている。
三浦休太郎の墓
寛永元年(1624年)創建の法華宗のお寺。元々四谷伊賀町にあったが、明治42年(1909年)この地に移転した。三浦休太郎の墓がある。三浦休太郎は紀州藩の支藩伊予西条藩士であったが、後に転じて紀州藩士となった。坂本龍馬暗殺の黒幕と目され、天満屋にいるところを陸奥宗光らに襲撃されるが難を逃れる。墓は初め青山墓地にあったが、後になって妙行寺に改葬された。