萩城跡の一画に設けられた史料館。藩政時代〜明治時代に掛けての文化遺産を展示・公開しており、吉田松陰、高杉晋作を始め、萩藩に縁の深い人物の遺墨・遺品も多く収蔵されている。定休日が不定であるため、確実に入館するには事前に確認が必要。
安政3年(1856年)に建てられた厚狭毛利家の長屋。厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門で、この地に広大な屋敷を構えた。屋敷は明治維新後に解体され、現在は長屋のみが残されている。
清水氏は、天正10年(1582年)羽柴秀吉の水攻めにより和議の条件として切腹した備中高松城々主清水宗治の後裔で代々毛利家に仕えた重臣。清太郎は末家の嫡男であったが、萩藩寄組士である宗家の養子となり、これを継いだ。江戸の大橋訥庵に学び、文久3年(1863年)3月学習院一件御用掛を経て、8月には家老に任じられ、国元加判役となる。元治元年(1864年)藩兵が大挙上京した際には周布政之助と共に鎮撫に努めるが、禁門の変により藩論が転じると罷免され、領地に赴いて謹慎。12月に謹慎先から萩の自邸に呼び出され、禁門の変の責を負って切腹した。宗治、清太郎と2度に渡り、主家を救ったと言われる。享年22歳。
萩藩家老国司信濃の屋敷跡。国司信濃は天保13年(1842年)寄組士高洲元忠の次男に生まれ、国司家の養嫡子となって家督を相続した。文久3年(1863年)4月赤間関奉行となり、5月には関門海峡を通る外国船に対し、攘夷を断行。元治元年(1864年)7月の禁門の変では、福原越後、益田右衛門介と共に藩兵を指揮するが敗れて帰国。第一次長州征伐後に禁門の変の責を負って徳山澄泉寺において自刃した。享年24歳。現在の市立萩西中学校の西側半分が国司家の敷地であったという。
萩藩大組二宮家の長屋門。藩政初期の当主二宮就辰は、毛利元就の息子で輝元の側近として仕え、広島城の普請にあたって普請奉行を務めた。
口羽家表門
萩藩寄組士口羽家の屋敷跡。口羽家住宅として、表門と主屋の2棟が残る。片潜門の脇に門番所を設けた表門は、市内に現存する長屋門では最大規模と言われ、門の奥に佇む主屋では馬印など口羽家伝来の品を展示・公開している。
堀内地区に残る鍵曲。鍵曲とは、両側を高い土塀などで囲み、道を鍵の手に曲げる事で侵入した敵を迷わせる防衛のための道路のことで、城下町に多く設けられた。特に堀内の鍵曲は、舗装せずに往時のままの景観を残す配慮がなされている。
鍵曲より北側を望む | 鍵曲より南側を望む |
奇兵隊を創設した長州藩士高杉晋作の生誕地。高杉晋作は天保10年(1839年)長州藩大組士高杉小忠太の嫡男として菊屋横丁に生まれた。藩校明倫館に学び、安政4年(1857年)吉田松陰門下となると、久坂玄瑞と共に松下村塾の双璧と称された。植民地化された上海を視察し見聞を広め、奇兵隊創設、下関戦争講和交渉に尽力。第一次長州征伐後には功山寺において決起し、俗論派から政権を奪還すると、第二次長州征伐においては長州藩勝利の原動力となるが、病に倒れ、29歳でこの世を去った。
正保2年(1645年)東隣に住む藩士岩倉孫兵衛が酒に酔い、この地にあった藩士野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷。両家共取りつぶしとなり、跡地に置かれたのが野山獄(上牢)で士分のものが入れられた。安政元年(1854年)10月、海外渡航に失敗して投じられた吉田松陰が、獄舎内で高須久子、富永有隣らと知り合い、「孟子」の講義を行った場所として知られる。元治元年(1864年)3月には来島又兵衛らの説得を放棄し、京阪に脱走した罪で高杉晋作が投じられ、「先生を遠く慕うて漸く野山獄」と記した。同年5月には、酒に酔った周布政之助が馬上抜刀した状態で晋作のいる獄舎に乗り付ける事件を起こしている。正義派、俗論派による抗争の絶えなかった萩藩では、多くの人材が投獄され、刑死させられた。野山獄は、正義派の殉難十一烈士(松島剛蔵、佐久間佐兵衛、中村九郎、楢崎弥八郎、竹内正兵衛、山田亦介、渡辺内蔵太、毛利登人、大和国之助、宍戸左馬之介、前田孫右衛門)、俗論派の坪井九右衛門や椋梨藤太などが処刑された場所でもある。
野山獄跡 |
代々藩重臣を勤めた萩藩家老吉敷毛利家の一門である毛利登人の誕生地。万延元年(1860年)世子の近侍番頭に任じられ、元治元年(1864年)8月の下関戦争講和交渉に際しては、宍戸刑馬(高杉晋作)の副使として執政毛利出雲を称した。しかし、藩論が転じると罷免されて野山獄に投じられ、同年12月19日高杉晋作らの挙兵に対する報復として処刑された。元治甲子殉難烈士。享年44歳。
四参謀の一人である宍戸左馬之介の旧宅地。林髀Bの三男に生まれた左馬之介は、宍戸藤兵衛の養子となり、伴信友に国学を学んだ。文久2年(1862年)家老益田右衛門介の手元役となり、元治元年(1864年)4月には、大阪藩邸の留守居役に任じられた。京都に駐在する来島又兵衛らの説得を命じられて周旋するが失敗に終わり、元治元年(1864年)7月の禁門の変に際しては、一時竹内正兵衛と共に敗走する兵を率いて天王山に布陣。しかし、真木和泉らと別れて帰国すると俗論派に捕らえられ、野山獄に投ぜられた後、処刑された。元治甲子殉難烈士。享年61歳。
天保改革を推し進めた村田清風失脚の後を受けて藩政を行った坪井九右衛門の旧宅。九右衛門が水哉亭、五峯楼と称した屋敷で、片潜門の左側に門番所を配した長屋門、主屋、土蔵が残る。弘化元年(1844年)、村田清風の後を受けた坪井九右衛門は、村田清風の行った強引な改革を破棄するなどして、商人や藩士に迎合する政策を執ったが、再び藩財政が多額の負債を抱えることとなり、失脚。これが後に村田清風、周布政之助らの一派と、坪井九右衛門、椋梨藤太らの一派が対立する下地となった。文久3年(1863年)阿武郡羽島へ配流中の九右衛門を妻子が訪ねたことを咎められ、結党強訴の罪で野山獄において処刑された。享年64歳。
長屋門正面 | 通り南側より長屋門を望む |
久坂玄瑞の兄で蘭方医の久坂玄機は、文政3年(1820年)萩藩医久坂良迪の嫡男に生まれた。弘化4年(1847年)緒方洪庵の適塾に入門した玄機は、伊東玄朴からも象先堂の塾頭にと請われたが辞退し、嘉永元年(1848年)より適塾の塾頭を務めた。嘉永2年(1849年)萩藩における種痘に尽力し、医学書の翻訳にも貢献した。しかし、安政元年(1854年)2月、藩主に海防策を問われた玄機は、病をおして執筆にあたり、無理が祟って病死した。享年35歳。
元治甲子殉難烈士のひとり、渡辺内蔵太の旧宅地。天保7年(1836年)八組士渡辺弥兵衛の三男に生まれた内蔵太は、長嶺家の養子となり、長嶺内蔵太と称した。文久2年(1862年)高杉晋作らの品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加。文久3年(1863年)実家渡辺家の嫡子後見として渡辺家に戻ると、政務座役に抜擢され、藩論の統一などに貢献した。元治元年(1864年)8月には宍戸刑馬(高杉晋作)の副使として下関戦争講和交渉に尽力。しかし、藩論が転じると俗論派により野山獄に投じられ、元治元年(1864年)12月19日高杉晋作らの挙兵に対する報復として処刑された。享年29歳。
村田清風の甥で四参謀の一人、竹内正兵衛の旧宅地。八谷正左衛門の五男に生まれ、竹内正太郎の養子となった正兵衛は、藩吏として主に財政整理や資金調達に努めた。元治元年(1864年)7月の禁門の変に際しては、佐久間佐兵衛と共に家老福原越後の参謀として活躍。しかし、敗れて帰国すると俗論派に捕らえられ、野山獄に投ぜられた後、処刑された。元治甲子殉難烈士。享年46歳。
明倫館で助教を務めた佐久間佐兵衛は四参謀の一人。中村九郎の実弟で幼少の頃に親を失い、叔父の赤川又兵衛に育てられた佐兵衛は、佐久間家の養子となり、佐久間佐兵衛と称した。明倫館で吉田松陰に学び、安政2年(1855年)より3年間水戸において会沢正志斎に師事。元治元年(1864年)7月の禁門の変に際しては竹内正兵衛と共に参謀として家老福原越後に従い、負傷した福原越後に代わって指揮を執るなど奮戦。しかし、敗れて帰国すると俗論派に捕らえられ、野山獄に投ぜられた後、実兄中村九郎らと共に処刑された。元治甲子殉難烈士。享年32歳。
静岡県伊豆の国市にある韮山反射炉と共に現存する反射炉遺構の一つ。反射炉とは反射熱を利用して金属を溶かす構造の炉のことで、大砲鋳造のために必要とされた。萩反射炉は、試験炉として安政3年(1856年)に操業された反射炉であったと考えられている。
鈴木勘蔵の旅館跡。久坂玄瑞の日記「江月斎日乗」の文久2年(1862年)1月14日の項に土佐藩士坂本龍馬が武市半平太の書簡を携えて来訪し、松浦松洞に託して宿に泊まった旨が記されており、投じた先が鈴木勘蔵方であったとされる。案内板によれば、偶々、薩摩藩士田上藤七も樺山三円の書簡を持参して来訪しており、この地で薩摩藩田上藤七、長州藩久坂玄瑞、土佐藩坂本龍馬の3名が一堂に会し、後の薩長土連合を暗示する前兆になったとある。
江戸送りの直前に吉田松陰の肖像を描いた人物として知られる松浦松洞の生家跡。生家は魚商であったが、幼少より画に秀で、羽様西崖、小田海僊に画を学んだ。安政3年(1856年)幽囚室に松陰を訪ね、以降教えを受ける。松陰の死後は、長井雅楽の開国論に憤慨し、暗殺を企てるも未遂に終わると、時勢を憂いて京都において自刃した。
高杉晋作、久坂玄瑞と共に松陰門下の三秀と呼ばれる吉田稔麿の生家跡。嘉永2年(1849年)松陰の叔父である久保五郎左衛門に学び、安政3年(1856年)からは松陰に師事した。万延元年(1860年)に脱藩した際には、幕府の動静を探る目的で幕府旗本妻木田宮の使用人になるなどしたが、後に帰藩。奇兵隊に参加し、屠勇隊を組織した。文久3年(1863年)8月18日の政変で京都を追われた長州藩の失地回復のために奔走するが、元治元年(1864年)6月の池田屋事件に遭遇し、自刃した。自刃した場所や状況については諸説があり、定かではない。
高杉晋作が剃髪して10年の賜暇を賜り、文久3年(1868年)4月から藩庁に呼び出される6月までの間、妻雅と草庵を借り、吉田松陰の遺稿を読むなどして過ごした場所。古い案内には松陰像から500メートル程登った山峡にあったとするものもあるが、実際の場所は特定出来ていないものの、概ね吉田松陰誕生地の西側地帯に広がる弘法谷と呼ばれる地域のいずれかにあったとされる。
松下村塾を側面から支援した楫取素彦の旧宅跡。文政12年(1829年)萩藩医松島瑞播の次男として生まれた素彦は、兄に松島剛蔵を持ち、萩藩儒者小田村吉平の養子となって小田村伊之助と称した。翌天保元年(1830年)に生まれた吉田松陰とは生前を通して深い親交を結び、松下村塾で門下生の指導にあたるなど松陰を支え、松陰の妹寿、美和子を妻に迎えている。四境戦争では、幕府側との交渉役を担い、維新後は初代群馬県令を経て、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員を歴任。吉田松陰の実兄杉民治と共に松陰の顕彰に努力した。
楫取素彦旧宅地碑 | 楫取素彦旧宅跡 |
元治甲子殉難烈士のひとり、松島剛蔵の旧宅跡。文政8年(1825年)萩藩医松島瑞播の長男として生まれた剛蔵は、坪井信道に学び、世子侍医となるが、安政2年(1855年)長崎海軍伝習所に参加して航海術を学び、丙辰丸の艦長に就任。万延元年(1860年)7月の丙辰丸の盟約に参加、文久3年(1863年)5月の下関における攘夷戦で指揮を執るなどしたが、藩内情勢の変化により俗論派が政権を掌握すると野山獄に投じられ、斬首された。楫取素彦は実弟。