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2002年12月

何も出来てないのにもう師走。来年はもっと余裕が欲しい・・・。

2002年12月27日 金曜日

1780年(安永9年)のこの日、後に「日本外史」を著し、幕末の思想に影響を与えた頼山陽が大阪に生まれた。実はさかのぼること22年前の1758年(宝暦8年)の同じ日、後の老中となる松平定信が田安家に生まれている。この同じ日に生を受けた2人は、1827年(文政10年)頼山陽が「日本外史」を老中松平定信に献上するという不思議な偶然で縁を持つ。松平定信に認められた「日本外史」は公刊され、この2人の接点から約40年後、幕府は終焉を迎える。因縁であると感じずにはいられない。

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2002年12月26日 木曜日

明日通院の予定があり、本日仕事納め。短い冬休みを如何に有効に過ごすか。午後はそんなことばかり考えていた。昨日、本棚から引っ張り出してきた「燃えよ剣」を通勤電車の中で読む。司馬さんの小説はやっぱり、読みやすい。サクサクとページが進む。土方歳三も沖田総司も活き活きと描き出されていて、読んでいて気持ちがいい。明日、体調と天気が良ければ、病院の帰りに日野まで足をのばしてみようか、なんて気持ちになる。

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2002年12月18日 水曜日

第6回司馬遼太郎賞が決まった。司馬さんが亡くなってから6年が過ぎたことになる。司馬遼太郎記念館のサイトをのぞいてみたら、第7回菜の花忌の参加者を募集していた。司馬遼太郎記念館も何かの機会に・・・と思いつつ、距離に負けて結局行けてない。ふと、司馬さんの作品も暫く読んでないなあ、と気が付いた。一時、手当たり次第という様に愛読していた司馬さんの作品は、いまも本棚の一角を占めている。初心に戻って、久し振りに「新選組血風録」でもひっぱり出してみようかと思った。

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2002年12月11日 水曜日

昨日、千葉周作の命日と書いてアップしてから気が付いた。1867年12月10日は慶応3年11月15日。近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃され、坂本龍馬が亡くなった日だった。千葉周作と坂本龍馬の命日が同じ日だったということになる。凶客相手にも剣を抜かなかった剣客は、その流派の開祖と同じ日に亡くなった。こういう偶然を見つけたとき、歴史の面白さをそこはかとなく感じる。霊山にもしばらく行ってないなあ。

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2002年12月10日 火曜日

1855年(安政3年)のこの日、北辰一刀流の開祖千葉周作が亡くなった。北辰一刀流と千葉周作の名前は幕末の剣客が語られる時に必ず出てくる名前であるため、明治の頃まで存命なのだとばかり思っていたら、幕末の随分と早い時期に亡くなっていたと知って驚いた。ちょうど坂本龍馬が剣術修行のため再び江戸に出てきていた時期で、安政5年9月に剣術修行を終えているから、桶町千葉道場の本家筋にあたるお玉ヶ池の玄武館の道場主が亡くなったとなれば、龍馬も弔問なり葬儀の手伝いなどに出掛けたかも知れない。その千葉周作の墓は巣鴨の本妙寺にある。

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2002年12月09日 月曜日

関東は大雪。東京の最高気温は2.3度。12月の積雪は11年ぶりとのこと。月曜の朝から寒さが身に沁みる。通勤に通常の3倍近い時間を費やした。都心の鉄道会社はホントに雪に弱い。昼過ぎには雪はあがったけれど、明日はこれが氷になる。また、少し寒さの厳しい日が続きそう。

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2002年12月08日 日曜日

休日出勤と終電で帰る日が続き、やっと一息つける様になりました。気がつけば、11月は3日しか、この日誌をアップ出来ませんでした。まさに怒濤の2002年といった感じです。結局、休みらしい休みもとれず、遠出らしい遠出も出来ず、行きたかった京都へも行けず終いでした。決して仕事が嫌いな訳ではないけれど、ここまで余裕がないのもどうかなあ、とそれが2002年を振り返って思うこと。来年は好きなときに好きな場所へ出掛けられる余裕を作ること。それが目下の課題です・・・ね。

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